――遺伝子操作に倫理の歯止めはナンセンス?――
司会 今月は小説が2冊とノンフィクションが1冊ですが、どれから始めますか?
永江 前回の続き……というわけもないけど、SFの新刊『ジーンリッチの復讐』(山川健一著、メディアファクトリー、2001年9月刊、本体1600円)から。舞台は2020年の日本です。バブル崩壊の後遺症から脱出できずボロボロになった日本……という設定です。なぜ2020年なのかというと、遺伝子操作やクローン技術など、いまの生命科学が到達した技術を駆使して生まれた赤ん坊が成人になる時代、というわけ。この小説を読むと、生命科学の現在がほぼ概観できる。物語の発端は、インターネットで殺人プログラムが流れるところから。一種のビデオドラッグなんだけど、誰がなんのために? という謎を解いていくのが、この小説の骨格です。謎解きの途中でジーンリッチ=遺伝子組み替えによって出現した優秀種が登場する。事件の背景にあったのは、ジーンリッチ(遺伝子改良種)とナチュラル(自然生殖種)との対立だった、というわけです。よく、未来予想では、ジーンリッチがナチュラルを支配する社会が到来するというんだけど、この小説が秀逸なのはそこを倒立させたこと。山川が描く近未来社会では、ジーンリッチがナチュラルに差別され虐げられる。現実にいまも日本社会では優秀な人はいじめられやすいでしょう? 出る杭は打たれるのが日本だから。天才たちは能力があるゆえに不幸になっていく。
斎藤 優秀であっても、マイノリティーであれば差別される。そこは正しい認識ですね。
永江 もうひとつ重要なのがクローンの問題です。クローン人間のアイデンティティはどうなるのか。クローンや遺伝子操作によって起こりえることをシミュレーションしてみたのがこの小説です。
斎藤 よく勉強している感じですよね。ただ、物語の内容自体は、「どこかでみたぞ」という感じなのなぜなのでしょうか。仕掛けはクローンや遺伝子操作ですけれど、最後は復讐、暴力、殺しあい、というところに行っちゃうわけでしょ。エンタテインメントの定石だといわれたら、ああそうですか、としか答えようがないけれど、それなら遺伝子操作ゆえに誕生したジーンリッチじゃなくたって、アンドロイドでもロボットでも何でもいいわけよ。クローンとか遺伝子改良種を出してくるなら、バイオテクノロジーがからむがゆえの物語に、なぜならないのかな。
永江 それは読みが浅いんじゃない? だって、ここにあることは現在の技術で可能なんだから。この小説は現実批判として読まなくちゃ。生殖医療にしても生命科学にしても、よく「倫理で歯止めを・・・」といわれるけど、そんな議論はナンセンスだ、というのがこの小説でしょう。アンドロイドやロボットではこの小説は成立しない。そこが『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』とか『惑星ソラリス』とは違うところ。
斎藤 あっそう。これはSFじゃなくて現実批判だったの。んじゃ、遺伝子操作を許してしまうと、コンピュータから殺人プログラムが流れて、優秀種がアイデンティティの分裂を起こして、復讐劇に走るぞと。だから遺伝子操作はいかんぞって?なんか現実的じゃないなあ。
永江 時代設定が近未来なのは、現実との整合性を考えたからそうなったまでで、むしろ現在の物語なんですよ。
斎藤 そうなのかな。特化した優秀な種というのはガンダムのニュータイプじゃないけど、いままでもいろんな形で物語に出てきますよね。遺伝子操作の技術によって、それがとうとう簡単にできるようになったというわけか。
永江 簡単かどうかはともかく、体細胞クローンが誕生したことで、理論的にも技術的にも可能になった。誰も「やってる」とはいわないけど。ヒトがたった一個の細胞の段階から、遺伝子をいじることができる。ということは、その人間の全細胞の遺伝子を操作できるわけ。
斎藤 それはそうでしょう。遺伝子操作なんかない時代でも、累代飼育でイヌやネコだってあれだけの品種改良ができたんだから。
永江 遺伝子操作の技術とクローン技術がつながることによって、それまでの遺伝子治療とは全然ちがうレベルの話になったんですよ。クローン羊ドリーが誕生したのは1997年の11月だけど、いまや体細胞クローンは羊だけじゃなくて牛でもできている。人間でもできるに違いない。
斎藤 もうやってるんじゃないの?
永江 山川健一はそう考えているようですね。ヒトゲノム計画で病気を根絶するというのと、優秀な遺伝子の子供を持つということは表裏一体ですよ。
司会 つまらないですね、みんな同じで、全員が優秀になってしまっては・・・。この本のタイトルもわかりにくいですね。「ジーンリッチ」をパッとわかる人は少ないと思うのですが。ちょっと損をしていませんか?
斎藤 たしかにわかりにくい。「ジーンリッチ」とは本当はどういう意味?
永江 そのままです。ジーン(gene)は遺伝子、リッチ(rich)は裕福。
斎藤 ほんとにそのまま。何かのダブルミーニングになってたりはしないのね。
司会 この本はあとがきに、随分短期間で書いたとありましたが、500ページ近くあって分厚いし知識も詰まっていて、しかも1600円と安いですね。
永江 3ヵ月で一気に書き上げたそうです。この小説は山川健一にとって初めてのエンタテインメントですが、純文学的小説を書いているときよりも、はるかにノッて書くことができたといっていました。準備には1年くらいかけ、資料を読むだけでなく、現役の研究者にも助言を得たそうです。
斎藤 でもやっぱり、もう少し日常的な場で、バイオテクノロジーを文学化できないものかという思いが拭えません。遺伝子以外の道具立ても、ゲームだったりコンピュータだったりでしょ。で、最後は必ず活劇になる。『ルー=ガルー』もそうだったし、もっと前の『パラサイト・イヴ』もそうだったけど、どうも既視感があるんですよ。
永江 というよりも、テレビゲームに夢中になっているような人々に読んでほしいという著者の思いがあるんだと思う。ライバルは『ファイナル・ファンタジー』シリーズだなんて、冗談めかしていっていたから。
――どうしても子供がほしい――
司会 次は『茉莉子』(夏樹静子著、中公文庫、2001年5月刊、本体648円)です。
永江 『ジーンリッチ』はすいすい読めたのに、こちらは生理的にだめだったな。よくノベルスにあるオーソドックスな推理小説スタイルなんだけど。芸者社会についての蘊蓄など、ストーリーに直接関係ない知識の披瀝があるでしょう。舞台が東京・京都・鎌倉・ロンドンと、いかにもそれっぽいのもなんだか……。
斎藤 私もなんだか立原正秋とかの古〜い小説を読んでいる感じがしたなあ。
永江 というよりも旅情ミステリみたいな雰囲気が苦痛で。この小説のネタは長野県下諏訪の産婦人科医「諏訪マタニティークリニック」の根津院長がやったような話でしょ。試験管ベビーをつくるとき、あらかじめ受精卵をいくつか冷凍保存しておく。スペアですね。双子、三つ子が時間差で生まれる可能性ができる。そのネタひとつで最後まで引っ張ったのはあっぱれだけど。
斎藤 ただ、あえて擁護するなら、ミステリって「どうやって人が死んで、誰が殺したのか」という死ぬ話の推理でしょ。でもこの小説は「どうやって人が生まれ、誰が生んだのか」という出生の秘密を推理する筋書きになっている。ここに逆転の発想がありますよね。凍結受精卵が謎解きにからんでいるとは、まさか想像できません。最初のほうなんか、顔がそっくりな二人の女の人が出てきて、まるで川端康成の「古都」みたい(笑)。二つの物語が同時進行のように進んでいくが、実は20年のずれがある。で、最後は生殖技術というところに行き着く。「出生の秘密もの」というのはものすごく古い物語のパターンです。それが最新の生殖技術とセットになっている。
永江 親本は99年なんだけど、こうした不妊治療レベルの話は、なんだか牧歌的に思えるぐらい、生命科学の進歩はいちじるしいね。
斎藤 『ジーンリッチ』より私にはリアリティーがあったけど、不思議な読み心地ですよね。文章も古風だからいつの時代の話なのかという感じ。20年前の不妊治療技術や試験管ベビーの話と、そのほかの風俗描写が溶け合っていない。違和感はあります。
司会 こういう話を読むといつも不思議に思います。こうまでして子供がほしいのかな・・・。
永江 不妊治療のところで、あれだけ涙ぐましい努力をしているのは、「気持ち悪い」と感じてしまうのは、私が男だからだろうか。なんか、いやだな。
斎藤 それは真っ当な感覚だけど、やっぱりどうしても子供がほしい人はいっぱいいるんだよ。それは理解してあげなくちゃ。
――生命をいじってしまう恐ろしさ――
司会 最後は『いのちの決断』(毎日新聞社会部著、新潮社、2001年8月刊、本体1300円)。
斎藤 これは現在の生殖技術のみならず、遺伝子治療とか出生前診断、脳死、臓器移植など、最先端医療問題を追ったルポルタージュです。
永江 元は新聞の企画記事で、1回ぶんが2000字くらいかな。ちょっと読み足りない。『ジーンリッチの復讐』も『茉莉子』も、生殖技術の発展で生まれてきた子供の側からの話でしたが、この本のルポにあるのは親の話ばかり。子供の側からの視点がない。現実的に子供の側に取材するのは難しいのかもしれないけど、遺伝子治療は生まれてくる当人のためになっているのかどうか、この本を読んでもぜんぜんわからない。
斎藤 確かに子供の側からの話がないですね。というより、生殖技術の発展の結果生まれてきた子供たちが、自分をきちんと語れる年齢に、まだ達していないのかもしれない。「出生の秘密」を親は子供には語らない気がする。しかし、子供の側はどう感じるのだろう。やっぱりアイデンティティの危機に陥っってしまうのかな。
永江 気持ちの問題は当事者じゃないとわからないけど、机上の理論として考えるとそうなるよね。デカルト以来、自我というのは、唯一絶対の自分を出発点としてきた。だから自分はかけがえのない存在だといえる。もしもそれが第三者に人為的にデザインされたものだったら、その前提は揺らいでしまう。生きることの一回性は、少なくとも論理的には崩壊してしまう。着床に失敗したときのためにスペアの受精卵を冷凍保存しておくというのはそういうことでしょう。
斎藤 どこからを人間と考えるか、という話もからんできますよね。妊娠中絶の議論なんかも、いつも問題になるけれど、受精卵も人間と考えるべきなのか。それとも子宮に着床したときからなのか。不良であるとして潰されていく受精卵がいっぱいあるわけでしょう?あと、『ジーンリッチの復讐』も『茉莉子』もそうなのですが、子供の側の発想として、自分の父親と母親が愛し合って生まれてきた子供であるかどうかが、すごく大事なのね。人工授精で生まれてきた自分には価値がない、っていう発想はひどく古典的な気もするのですが。
永江 でも、親の側からするとそうでしょう。最初の子が失敗作だったら、スペアの受精卵があるさ、ということなんだから。それは悲劇だけど、現状としては山川健一が『ジーンリッチの復讐』でいっているように、生命科学に倫理なんか持ちこんだって歯止めになんかならない。どんどん技術が進んでいるんだから。
司会 だれもこの技術の驚異的な進み方に対して、倫理的にどう考えるべきなのか、指針をもてないし、彷徨っている感じですね。
永江 読みながら背筋が寒くなった。生命をいじってしまう恐ろしさ、歯止めがないことの恐ろしさを、やっぱり感じてしまう。そして「こんなこと感じてしまうオレって、わりとナイーブじゃん」とも。もちろんこのナイーブは貶し言葉だけどね。
斎藤 短いルポなのに、ウッと言葉につまってしまうところが何箇所かありました。生殖医療ではないけれど、たとえば臓器移植をしたドナー(提供者)の家族の心の揺れとか。移植をうけた患者のことはドナーには知らされないので、自分の息子の臓器を提供した両親は「息子が行方不明になってしまった」と感じたりする。家族はこんな気持ちになるのかと改めて思いました。ドナーの家族も大きなストレスを抱えるのに、彼らにはケアがないんですね。
永江 あまり知られていないけれど、異常児や奇形児の出産は想像以上に多いんだよね。たしか6%くらい。しかし、非健常児を出産した母親を精神的にケアしていくシステムはあまりない。実際に医療関係者に聞くと、いちばんつらいはずの母親そっちのけで、父親側・母親側の祖父母が「ウチの血統にはこんな血はないはずだ」とののしりあったりひどいもんだそうです。
斎藤 遺伝子治療のような最先端医療の前に、そういうプリミティブな状況に関する情報が不思議なくらいない。いざ自分がそんな立場にたたされたら、非常に戸惑うと思う。
永江 障害をすべてリスクとして考える世の中は、これでいいのかと思う。
斎藤 『五体不満足』という本は痛くて読めない、という人もいっぱいいるんでしょうね。今回の3冊はどれも読みやすい本でしたが、テーマが重くて、そういう意味では難しい本でした。おじさんたちが「ITははじけて、これからはバイオ関連だ」なんていっていますから、これからこのジャンルはますますクローズアップされていくんでしょうけれど。
永江 おじさんだけじゃなくておばさんたちもね。なにしろいま大学のバイオ系は女子学生のほうが多い。就職もいいそうです。顕微鏡で覗きながらミクロ単位で操作する人工授精や遺伝子操作は、女子学生のほうが優秀だそうです。長時間の作業でも緊張の糸が切れず、作業レベルが落ちないっていうんだけど。
斎藤 生命科学は、すでにおばさんの得意分野だから。
(司会・文・構成 國岡克知子)