――ITとは時間が短縮されること――
司会 今回はインターネットがらみの本での対談ですが、どれから?
永江 どの本を選ぶか、けっこう悩みました。悩んだ時にはブックガイドをまず読め、ということで、『西和彦 ITの未来を読む365冊+α』(西和彦著、日経BP社、2001年4月刊、本体1600円) から。西和彦の特性も伝えているし、IT全体を俯瞰できるブックガイドにもなっています。西和彦は(株)アスキーの創業者です。友人二人と1977年にアスキー出版を興しました。その当時、彼はまだ早稲田の学生でした。この77年という年は、いまから振り返るとパソコン元年。アップル社をはじめ、いくつかの会社が個人でも扱えるコンピュータ、パーソナルコンピュータを発売しました。のちに彼はマイクロソフトの副社長にもなり、ビル・ゲイツと一緒にソフトを開発したりもします。まさに日本のパソコンの歴史のような人です。その彼が、自分の蔵書をもとに、ITに関する本をさらに細分化して紹介しています。
司会 しかし、西さんは、一度挫折していますね?
永江 1992年、アスキーは負債が増大して、経営危機に陥る。一緒に会社を始めた塚本慶一郎らは、袂を分かって退社、インプレスを興しました。アスキーはCSKの傘下に入る。その意味では経営者としての能力には疑問がある。しかし、この本を読むと、ものを分類して提示する能力はすごい。編集者であり学者なんですね。この本では各章の始めに、テーマと取り上げる本の系統図が載っている。つまり、その本がジャンルのなかでどういうポジションにあるのか、一目瞭然になっている。担当した編集者の話では、これも西和彦のアイデアだそうです。こういうブックガイドは今までなかった。
斎藤 たしかに全体を俯瞰するにはとってもいいつくりですね。端からシコシコ読まなくてもいいようにできている。一覧性のあるディレクトリ構造がちゃんとできている。
永江 後半部分に語りおろしの「ITに対応するための51ヵ条」という章があって、そのいちばん最初に「ITの本質は、時間の短縮にあり」とある。コンピュータができるのは時間の短縮だけであって、それ以外のことは自分の頭でやるしかないんです。そう捉えれば、ITは驚異でもなければ、人智を超えた夢のマシーンでもない。要はコンピュータの導入によって生じた時間を何にどう使うかでわれわれの生活は豊かにもなれば、貧しくもなるわけで。パソコンの黎明期からずっとやってきた人がこういうふうに言うと「なるほどな」と納得しますね。変に浮かれてもいないし、「ダメだ」と全否定するわけでもない。
斎藤 冷静だよね。
永江 面白いのは、ITの最先端を行っている彼が、紙を重視していること。たとえば「書斎にはパーソナルコピー機を置け」というわけ。重い本をいちいち運ぶのではなく、必要なところをコピーして持ち歩けと。けっしてネット上にデータを置いて、携帯端末で呼び出して読めとは言わない。あくまで紙にこだわっている。じつは先日、西和彦を彼の書斎に訪ねたんです。この本に出てくる書斎に。その時も彼は紙の本、紙の雑誌がオンラインに取って代わられる絶対条件として、高速高性能かつ廉価なプリンタの普及を挙げていた。あくまで紙にコピーされなければ読めない、というわけです。
斎藤 西さんでもそうなんですね。ペーパーレス時代が来ると、ずいぶん言われてた時期があったじゃないですか。ところが、実際にはペーパーが増えるばかり。紙ってすごいんだね。ただ、この本はブックガイドなのですが、食指の動く本はあまりなかった。普通、ブックガイドだと、「この本は読んだ」とか「この本は読みたいな」というのが出て来るのですが。私にとって、このジャンルはあまり大事じゃないんだなあと思って、われながらおかしかった(笑)。
永江 これを読みながら思ったんだけど、今の本屋って本当にダメだな。この本みたいな本の分類作業、ディレクトリ作業をまったく放棄しているでしょう。1冊の本が、そのジャンルのなかでどういう系統、どんなポジションにあるのか全くわからない。ただ適当に並べてあるだけで。
斎藤 そうですよね。この対談のためにIT、ネット関係の本を探しながら本屋の棚を見てわかったのは、とにかく本は沢山あるが、棚の編集作業がまったくされていないということ。とりつく島がない感じだった。
永江 考えてみると、IT関係だけじゃないんだよね。文芸書コーナーだって、せいぜいミステリと時代小説・歴史小説を分けるぐらいで、あとは著者の五十音順に並べてあるだけ。阿部和重と安部公房と阿部牧郎が隣り合わせに並んでいるというのは、考えてみればひどい話で。「ダメだよ、今の本屋は」とあらためて思った。
斎藤 では、図書館の棚の分類が今の現実にあっているかというと、これも現状にあっていない。図書館の分類棚とは違う、自分なりの分類法で考えないと本を探せない。三つくらいのジャンルを探さないと、目的にあった本が見つからない。図書館の棚も意外に編集されていないということですね。
――ドリーム・ソサイアティではストーリーを売れ――
司会 次は『物語(ドリーム)を売れ。』(ロルフ・イェンセン著、TBSブリタニカ、本体2500円、2001年5月刊)。
斎藤 マーケットはこれからどうなるか、という本なのですが、ビジネス書といっても、非常に大風呂敷を広げた本。ITの先に何があるかがテーマです。歴史的に見ると、狩猟採集社会から始まって、農耕社会になる時に一つの革命があり、工業社会になり、それからインフォメーションソサイアティ(情報社会)になった。で、その次はドリームソサイアティだと言うのが著者の見取り図です。みんな今はITと騒いでいるけど、これはもう夕暮れである、もう下降線にむかっている、というのがこの人の主張。情報社会というのは60年代から始まっているわけで、ITとかインターネットというと新しく感じるかもしれないけれど、発想自体は終わりに向かっている、とのこと。では次の社会のあり方は何か、というとドリーム・ソサイアティだと。歯が浮くようなネーミングですが、要するにそこではストーリーを売るということなのね。情報ではなく感情に訴える商品が求められるものである、と。たとえばスポーツマンとかミュージシャンが高い収入を得ているのは、彼らが夢なしい物語を売る商売だからだと。ドリームは、ドラマと言ってもいいし、ストーリーと言ってもいいと思うんだけれども、そちらの方向にやがて社会は向かっていくということを、微にいり細にうがって書いている本です。
永江 気分としてはわかりますね。ユニクロが成功したのだって物語でしょ。長崎屋のバーゲンで千円で売っていたシャツとたいして変わらないわけですよ。だけどね、長崎屋には物語がないけれどユニクロにはそれがある。
斎藤 ブランドというもの自体がある種の物語を売っている。もう一つ彼が言っているのは、文字文化とイメージ文化の問題。ドリーム・ソサイアティというのは狩猟採集社会に一番近いというわけです。農耕社会というのは定住化して変化がないでしょ。ここから情報社会までは文字文化の時代。でもドリーム・ソサイエティというのはイメージに置き換えられていくだろうと。狩猟採集社会もラスコーの壁画に代表されるようにイメージ社会。文字文化がすたれることはないかもしれないけれど、文化=文字だったものが、図像文化へと転換するだろうと予測している。これはとても大きな転換なんだというわけですよ。
永江 ずいぶんとおおざっぱな話だな。それは表音文字であるアルファベットの文化と、表意文字から来た漢字文化ではちょっと違うような気がするけど。それに、文字文化はカット&ペーストで伝達可能だけれども、図像的イメージはどうやって伝達するんだろう。
斎藤 私のまとめ方がおおざっぱなのかもしれない。まあ、たしかに誇大妄想的だし、ロマンチックな夢物語みたいなところはあるのだが、ITで社会で情報、情報と騒いでいるところから突き抜けて、もうひとつ上のメタ・レベルから、見ているところがあって、情報社会が相対化されるところはありますね。しょせん情報化時代といってもそれは唯物主義である、と言うんだよね。工業化があってオートメーション化され、それが情報に変わっても同じ土俵のうえのものにすぎない。イメージ文化の時代とは簡単にいうと心の時代。モノが満たされたからとか、情報がいっぱいあったからといって幸せではない、という情況があらわれているとしたら、次に本当に求められるものは何なのか、というね。
永江 でも、ITの恩恵は先進国の人間にも、後進国の人間にもあるでしょう。たとえばアフリカの難民の救援物資が届くのに、いままで1ヵ月かかったのが、IT化で1週間に短縮できるとか。でも腹が減っている人に「夢をあげましょう」といわれてもなあ。
斎藤 その格差については延々論じているけど、ドリームは最終段階のことらしい。SFみたいな話なんだけどさ。
永江 だったら、マルクスのいう下部構造が上部構造を既定する、というほうがリアリティーがあるね。夢を語る本というのは、常にこういう疑問がのこってしまう。
――本の形は電子メディアで変化する――
司会 では、次はタイトルから想像したのとは中身が少し違った、『本の未来はどうなるか』(歌田明弘著、中公新書、本体780円、2000年11月刊) 。
永江 サブタイトルの「新しい記憶技術の時代へ」のほうが、内容をうまくいいあてていると思う。いままで当たり前のように思っていた紙の本を、いったん歴史のなかで相対化する視線が根底にあります。よくわれわれは「本が危ない」といいたがるけれども、紙に印刷した本の歴史といっても、グーテンベルク以降なんだから、せいぜい500年あまり。書店で売られるような形態になったのだって100年か200年でしかない。その長い時間の幅のなかで、じゃあデジタルの時代の本はどうなるのだろうかと考えていく。ものごとっていうのは、これくらいの歴史の幅で考えていったほういいなと痛感しました。
斎藤 十年、二十年という狭い期間で見ていちゃだめだよね、と私も思った。
永江 そう考えるとグーテンベルクの活版印刷から電子本へというのも、それほどの大変化ではない、と思える。情報の複製が可能になって一気に大衆に伝達可能になるという意味では、本質的にはあまり変わらないのだから。
斎藤 ずっとレベルダウンの歴史であったということや、活字離れとか騒いでいるのは、ほんの最近のことなんですね。
永江 本を一冊書いたら、王様からお城を一個もらえちゃうような時代から、一冊書いてもせいぜい数日分の生活費にしかならないという時代はぜんぜん違うんです。
斎藤 本にとって印刷というのが絶対であった、ということを切り崩していくのは面白い。でもそういう発想ができるようになったのは新しいメディアがでてきたからなんでしょうかね?
永江 マクルーハンの時に一度そういうことがあったわけでしょう。だけど、マクルーハン・ブームのときに日本の出版人は、読み誤ったんじゃないかな。
斎藤 たしかにみんなマクルーハンにかぶれた時期があったよね。電話とかテレビとかいったメディアによって、文化が相対化されていくという感じがあった。でも、読み誤ったとは?
永江 ITによって、本が自由になる側面と、逆の側面があると思う。自由が大きくなればなるほど、能力を駆使できる人とそうではない人の格差が広がるでしょう。いまだってネット上で資料を探せる人と、探せない人の、探すスキルの差がでているもの。でも、本というパッケージから自由になる側面も大きい。この間、岩波書店やみすず書房など6社が共同で「リキエスタ」復刊本をオンデマンドで作った。たとえば鎌倉時代の庭造りのノウハウを書いた『作庭記』という本がある。いままでは岩波の『思想体系』でしか読めなかった。それを1作だけ抜き出して、50ページの本にしてしまった。IT技術が本というパッケージの縛りをあっさり飛び越えたわけ。これは大きいですね。
斎藤 そうですね。西和彦さんが百科事典をコピーして使え、といっているのも、本というパッケージをバラせという点では、同じですね。コピー機ができたのも、そういう意味では、ITに先行する画期的できごとだったのかも。今の本の形が絶対ではないということです。
永江 短篇集だってオンデマンドでばら売りができるようになった。なんだかんだといっても紙の本は桎梏が多かった。この本を読んで、本の未来はけっこう明るいのかもしれないと思った。
斎藤 でもインターフェイスとしては、現在の本の形が人間工学的に優れていることが改めて確認されてもいる。それとの摺り合せの問題が残るんでしょうね。
――あまりに近視眼的な――
斎藤 最後はこれです。『IT革命の虚妄』(森谷正規著、文春新書、2001年1月刊、本体660円)。この本はすごく近視眼的だと思う。ITで世の中が夢のように変わるといわれているけれど、それは本当かどうかを検証する立場です。総論がなくて各論ばかりのような感じですけど。
永江 各論も問題ありだよ。アマゾンを例にオンライン書店について書いているんだけど、アメリカでは「車に乗って街の書店に買いに行く」のに対して、日本は「車に乗って本を買いに行くことは滅多になく」なんて書いている。おいおい、と言いたくなった。いまや地方の書店は持っている駐車場の広さで集客力が決まるという時代なのに、この著者は東京在住者の狭い視野でしかものを見ていない。そもそも、アマゾンをeコマースと定義するのは間違いだって、山形浩生が『アマゾン・ドット・コム』(日経BP社)の解説でスパッと書いているのにね。リアル書店とネット書店の本質的差異と、ネット書店で何が可能になるのかを明確にしなきゃいけないのに、それもない。
斎藤 そう、見通しがないの。ITについての本質的な見極めがないんだけどさ。ただ、今出ているIT本て、だいたいこのレベルで善し悪しを論じてるんじゃないかと思った。おじさんたちはこのくらいの視野の中で、騒いでるんじゃないか。あれだけあるIT本のほとんどは、この程度なのじゃないかな、と想像するな。
永江 もしかして聞き書きで作ったのかな。ずいぶん粗い仕事だと思う。文春新書は出来不出来が激しいね。
斎藤 こういう本を読むと、ITというのはどうでもいいんだな、と思っちゃうよ
ね。
(司会・文・構成 國岡克知子)