●今回、お二人が俎上にのせた本は…
――村上春樹というブランド名で売れた?――
司会 最初は村上春樹の久々の長編『海辺のカフカ』(村上春樹著、新潮社、2002年9月刊、本体各1600円)からでしょうか。
永江 この本の騒がれ方こそ、斎藤さんが『文壇アイドル論』で展開した「アイドル」の到達点かもしれない。新聞や雑誌の書評担当者に聞いたんだけど、「これは取り上げないわけにいかない本なんだ」と彼らは言う。ここ最近、こういう騒がれ方をした純文学作家はいない。そういう意味では、いまや村上春樹は国民作家になったのかな……。
斎藤 たしかにメディアの騒ぎ方は異常でしたね。出る前から新潮社サイドではあれだけ騒いで、出たとたんにあっという間にトップにおどり出て50万部……。
永江 たしかに小説もよくできていると思う。枠組みは古典的な物語のメソッドにしたがっているし、寓話的でもある。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(新潮文庫)と『ねじまき鳥クロニクル』(新潮文庫)を経由して、その延長線上にある作品ですね。でもこれが素晴しく優れた作品かというと、「まあまあ」というのが感想です。
斎藤 村上春樹についてはいろいろ意地悪に書いてきましたが、基本的には面白いと思っているんですよ、私も。読み始めると最後まで読んじゃう。ただ、この本については最後まで、もうひとつ物語に入り込めなかった。なぜだろう、と思った。この小説の構図は『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』と同じですよね。二つの世界を同時並行的に描いたパラレル・ワールド。15歳の少年と、戦争中に急に意識不明になり記憶を失った初老のナカタさん(「聖なる愚者」という位置づけの人物でしょうか)が、それぞれ東京都中野区から四国に向かうという話です。村上春樹を読んできた人なら、よくも悪くも、なんだかどこかで読んだぞ、というデジャ・ビュ感があるはず。自己模倣だといって怒っている人も多い。私はキャンディーズの「微笑みがえし」みたいなものじゃないかと別のところで書いたんですが(笑)。まあ、ファンにとっては、たまらない小説なんじゃないですか?
永江 たまたまその直後に大江健三郎の『憂い顔の童子』(講談社)を読んだのですが、大江もずっと繰り返し同じモチーフを使っていて、また四国の森の話。
斎藤 『海辺のカフカ』も大江健三郎のパロディかと思うよね、四国の森だし……。
永江 『ねじまき鳥クロニクル』に失踪した妻から手紙が来るシーンがあったけど、その消印が高松。なぜ高松なのか解決しないまま小説は終わったけど、『海辺のカフカ』が高松なので、ああここで繋がっているのか、と。村上春樹ファンはニヤリとするだろうな。村上は著者インタビューでこの本を『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』との関連で語っていたけど、むしろ『ねじまき鳥クロニクル』の続編だと思う。
司会 私の世代ではこれを読むのは無理なのかなと感じましたが。村上春樹の小説世界が理解できないのです。『海辺のカフカ』のどこがそんなに面白いのか、最後までわからなかったですね。
永江 彼がデビューしたとき、これがわかる世代はひじょうに狭いだろうと私は思った。同時に、これは自分のために書かれた小説だと感じた。村上春樹に共感できる人とできない人がすごくはっきりしている。だからこの小説は五十八万部なんていう売れ方が異常なんであって、本来は五千部くらいの純文学ですよ。あ、これは褒め言葉です。
斎藤 村上春樹というブランド名がついているから売れたのであって、これが彼でなければだいぶ違ったかもしれませんね。
永江 それと『ノルウェイの森』のビッグヒットで状況が変わった。私はあれを読んで、「もう村上春樹を読むのはやめよう」と思った。やめられなかったけど。
斎藤 だけどあの頃の感じとも『海カフ』はちょっと違うよね。私も初期三部作でハマって、『ノルウェイの森』で「なんじゃこれ」と思ったというよくいるタイプの読者ですが、そこからさらに遡って「村上春樹を好きな私って何? いやだな。隠しておこう」って思った(笑)。あそこから私の屈折が始まったのであるが、そういう意味では『海カフ』は「これを読んでしまう自分って何?」とすら思うこともなく、どうも入り込めなかった。主人公の田村カフカ少年はなんにも自分ではしなくても、勝手にまわりの人間がお膳立てしてくれるじゃない? 彼は何一つ手を下さなくても世界が動いていき、ネコは勝手にしゃべってくれる。なんだか都合がいい話だよね。田村カフカは不思議少年のままラストまでいく。
永江 この作品とル=グウィンの『ゲド戦記』との違いは、ル=グウィンの場合、イニシエーションの物語としての骨格をはっきりさせているけれど、これは中途半端。
斎藤 イニシエーションにもなっていないし、成長譚にもなっていない。家出したにもかかわらず成長していない田村カフカ少年。これは何なんだ!
永江 世界の描き方が弱いな。ぼやっとしたイメージだけだ。
斎藤 でもぐんぐん読めた?
永江 文章がうまいから、さらりサクサク読めました。
斎藤 かつての春樹と違うのは、気の利いた比喩とかアフォリズムが消えたことですね。15歳の少年が語り手だから限界があるのかもしれないけれど、あれがピリッとしたスパイスになっていた部分があったでしょ。だけど村上春樹さんも大変だよね。ある種の春樹像ができちゃってるし、根強いファンもついている。期待にこたえつつその期待も裏切らなければならない、というひじょうに難しいところに立っているんだろうな、という気がしますね。
永江 ただね、この小説の評価をすぐ決めてしまってはいけないのかもしれない。すこし置いておいたほうがいいのかも。なんだかわからない小説だから。わかりやすい小説ばかり跋扈するなか、こういう小説は大事です。
斎藤 それは私もそう思う。すぐに名作か駄作か判断するっていうのは性急すぎる。十代、二十代の若い読者が読んだら違う印象かもしれませんしね。文学離れの昨今、ともあれ、これが五十万部も売れるというのは出版業界にとって喜ばしいことでしょう。
――ぬるま湯的な生活はもう終りだ――
司会 次は山本周五郎賞受賞作『パレード』(吉田修一著、幻冬舎)と芥川賞受賞作『パーク・ライフ』(吉田修一著、文藝春秋)です。
永江 この二冊をあらためて読んでみると、山本周五郎賞と芥川賞の違いがよくわかります。『パレード』は五人の若者(男三人、女二人)が一緒に住んでいる。それも偶然に偶然が重なって共同生活している。お互いにほとんど干渉することもなく、ちょっと気にする程度。「インターネットのチャットみたいな関係ね」というフレーズがでてきますけど、それぞれの関係は電話で話すほど密着しているわけではないが、それなりの意思の疎通はある。このあたりの描き方がうまいですね。一方の『パーク・ライフ』は日比谷公園と世田谷にある駒沢オリンピック公園が舞台。とくに何かがおきるでもなく、日比谷公園で毎日お昼を食べる独身の若いサラリーマンの日常を断片的にスケッチしたもので、電車のなか偶然出会った女の人とこれからひょっとして関係ができるのかもしれない、というところで唐突に終わる。
斎藤 なぜ『パレード』が山本賞なのかというと、この物語のいかにもオチらしいオチですね。これをどう評価するかでしょう。
永江 このオチがなければ三島賞だったのかもしれない。こういう小説はここ十年くらいの流行でした。保坂和志が『プレーンソング』(中公文庫)とか『草の上の朝食』(中公文庫)でアパートの共同生活を書きはじめ、角田光代の『東京ゲスト・ハウス』や鈴木清剛の『ラジオデイズ』がそれに続いた。バブル景気のフリーター文化のなかで生まれたものでしょうが、この『パレード』のオチでは、共同生活してニコニコして、しかも密着した関係は結ばずなんとなく気疲れもしないで、こういう暮らし方はいいね、というぬるま湯の生活は終りだ! もう先はないぞ、ということをはっきりと描いた。
斎藤 そういうことなんでしょうね。この結末はそういうぬるま湯の関係性に「ばーか」って言ってると(笑)。
永江 「ばーか」っていうか、吉田修一は「もうこんなことしていられないぞ」という思いでこれを書いたんじゃないのかな。
斎藤 でも、鈴木清剛の『ラジオデイズ』からだって、まだそんなに経っていないでしょう。あれは五年くらい前でしたよね。
永江 もう五年も経ったとも言える。
司会 芥川賞の『パーク・ライフ』のほうはどう読みました?
斎藤 嫌いになりにくい感じの作品ではあるな。
永江 いまどきの気分がうまく書けているよね。ただダラダラ書いている思いつき小説じゃなくて、構成も緻密。日比谷公園と駒沢オリンピック公園の対比とか、日比谷のオフィス街と駒沢の住宅街の対比とか。そもそも公園という場所がうまい。公園とは何もしないことは許されるけど、何かすると排除される空間だ、と誰かが言ってたけど。駒沢オリンピック公園は犬を持ち込める数少ない公園で、ブランド犬の見せびらかし場所なんだ。
斎藤 すごく意識的な小説ですよね。何もおこらない小説でふわっと書いているようにみえるんだけれど。彼は「関係性」を書こうとしているんだと思うんだ。一人ひとりがどうであるかじゃなくて。現代小説はなべてその傾向があるけれど、関係性を描こうとすると、ある種の幾何学的な図形っていうかさ、設計みたいなものが頭に浮かぶ。もちろん芥川賞の選評では、だれもそんなこと言わないけどさ。「何ものにもこだわらない自由な若者の生き方が清々しい」みたいな話で……。
永江 ズレまっくっているよね。だけど年配の選考委員にもなんとなく好かれる要素を吉田修一は持っている。『パーク・ライフ』は、三十五歳くらいで年収が五百万円くらいの平均的男性サラリーマンが読むと、オレがここにいる、と思わせるんだよ。
斎藤 読者に齟齬を感じさせない自足感、なんかいい感じ、というそれがいいのかも。
司会 J文学をずっと読んでいない人間にはきっとこのよさは理解できないもののような気がしますね。ぽつんとこれを読んでも楽しめない。
斎藤 J文学っていうか、ここ十年くらいの文学地図みたいなものが頭に入っていたほうが、楽しめるのは確かかもしれませんが。
永江 三十代の人の文学を読むにしてもポップ・カルチャーと連動しているから、「くるり」を聴いて村上隆を見ていないと無理かもしれない。そういう意味ではJ文学を読むにも教養がいる。
――女性を前面に出したドストエフスキー的大河小説――
司会 最後は『晴子情歌』(高村薫著、新潮社、2002年5月刊、本体各1800円)です。
斎藤 この小説で高村薫は路線変更したわけですね。もうミステリは書かないと宣言したでしょ。これからは女の人を書きたいんだ、と。
永江 これはリアリズム小説ですね。大正九年、東京の本郷のインテリ家庭で生まれた文学少女の晴子が母の死を契機に十四歳で父の郷里の青森に移る。高等教育をうけないまま、造り酒屋へ奉公に入り、様々な大人のなかで成長し結婚し子どもを産む。昭和五十年、五十代の後半になった晴子は、東大を出たにもかかわらず遠洋漁業の漁船員となった息子の彰之に膨大な手紙を書き送る、というのがこの本のあらすじですが、さまざまな「声」がずれをもって出てくるという意味で、ドストエフスキー的な大河小説です。高村薫は『レディ・ジョーカー』などミステリ小説を書いていたときから緻密な設計図を書く作家でしたが、そういう人がリアリズムの純文学を書くとこうなるのですね。
斎藤 それから読書小説といってもいいくらいに名作文学がいっぱい出てきます。それをちりばめているのは純文学コンプレックスだ、みたいな書評があったけれど、それは違うだろうと思う。高村さんはドストエフスキーやトルストイの『アンナ・カレーニナ』のような十九世紀的な長大ロマン本格小説というのをあえてやろうとしているのかなと思った。もともとそういうタイプの小説は日本には少ないんですよね。
永江 晴子のような女性が本当にいると思う。高等教育を受ける機会はなかったけれど、こういう読書生活を送った女性はありえますね。ふた昔前ぐらいまでの日本の読書は、こういう人たちによって支えられていたんじゃないかな。
斎藤 そうかもしれません。これは大正モダニズムから始まるでしょ。母の手紙がひとつの柱になってますよね。こんなに長い手紙を書く母はいるかな、とは思うけど、この手紙文がすごく面白い。『モダンガール論』の時代だなあと思った。昭和初期の女学生の雰囲気ってこうだったんだろうなと、『モダンガール論』を書いていたときの資料の山を思い出しましたね。高村さんは、母の手紙を旧仮名にしていますけど、違和感なく溶け込んでいますよね。多少デフォルメしているでしょうが、ある女性の典型を書こうとしている。さっきもふれたけれど、日本にはこういう十九世紀的本格小説がない。女性の一代記というのもあるようでない。日本のヒロインで、アンナ・カレーニナやスカーレット・オハラみたいに有名なヒロインっていないじゃない? 有島武郎の『或る女』がそれっぽいけど、『或る女』の葉子……とかいったって、そんなに知られてはいない。高村さんがどういう思いでこれを書いたのかはわかりませんが、女性の一代記を書こうとしたという意欲を買う。こういうのって、純文学の作家は恥ずかしいからやらないと思うんだよね。ただ、面白い本ではありましたが、一人の女性の一代記というのは今の時代に合わないから上下巻を読み通すのはちょっと大変かも。
永江 一人の人間が生まれる前から死んだあとまで書く、というのは同時にその時代を書くということですね。高村薫がやろうとしたのも昭和史を書くことです。それも東京に視点を置くのではなく、わざと地方に持っていくやり方。それはうまいなあと思う。私はつい自分の母を晴子に重ねて読んでしまって。だからなのか、すごく面白かった。こういう徒労のような作業を積み重ねていかないと小説は痩せ細るのかもしれません。
斎藤 そうですね。そういえば、水村美苗さんの『本格小説』も十九世紀的な小説にあえてチャレンジしたっていう感じです。これはまだ読んでいないんですけれど、日本の小説家も、こうしてみると、頑張ってるじゃないですか。
(司会・構成/國岡克知子)