有限会社 編(あむ)書房
〒136-0071 東京都江東区亀戸1-38-5-601
TEL&FAX 03-3684-9124

新刊情報
編集雑記
お便り
ご注文


 

 
 

斎藤美奈子&永江 朗の「甘い本 辛い本」 19 

美術を読む

●今回、お二人が俎上にのせた本は…

――日本人に芸術は無理なのか――

司会 最初は新刊の『「爆心地」の芸術』(椹木野衣著、晶文社、2002.5月刊、本体2800円)からですね。

永江 明治以降の日本近現代美術は作家よりもむしろ評論家によってリードされてきたような気がします。岡倉天心に始まって、戦後は針生一郎の時代や東野芳明の時代があった。たぶん1990年代は椹木野衣によって語られた美術の時代だったのではないか、と思います。だから椹木野衣の発言に注目しておけば現代美術はほとんどわかる(笑)。

斎藤 岡倉天心から椹木野衣までが一直線上に並ぶってすごいですね。このジャンルは永江さんのほうが詳しそうだから、今日はインタビュアーに徹しようかなと思っておりますが。えーと、椹木さんは何年のデビューでしたっけ? 80年代の終わりくらいだったかしら。

永江 同志社大学を出てから『美術手帖』の編集者を10年近くやり、1991年に『シミュレーショニズム』(洋泉社)でデビューです。その前後から美術評論の世界で活躍し始めたようですね。

斎藤 誰が書いたかは忘れましたが、椹木さんの本の書評でおもしろいものを読んだことがありました。「これまでの美術評論というのは耕運機でノロノロと道を走っているようなものだったが、そこに椹木野衣がフェラーリで乗りつけてきた。そして批評のありようをものすごく変えてしまった」……と。ところがフェラーリだから、ときどき故障もする(笑)。なるほどな、と思った。

永江 結局、80年代までは欧米に追いつけ、という美術批評だったんじゃないでしょうか。作家を鼓舞し、大衆に対しては啓蒙的に海外の新しい動きを紹介すればこと足りた。ところが80年代にほころびが目立ち始めた。きっかけはニューペインティングというムーブメントだったと思う。当時の東野芳明らの批評は、いま読むとピントがずれている。そこに椹木野衣が『シミュレーショニズム』で、「あれは絵画への回帰などではなくて、絵画史そのもののシミュレーションでありリサイクルなんだ」と語った。それも椹木はハウスミュージック(かつてあった音楽をサンプリングして音素材として使い、電気的な加工などをほどこし、一種のコラージュをして出来上がったロックミュージック)から引用してそれを説明した。

斎藤 音楽批評の手法を転用したわけですね。

永江 ほかの表現からアートを再解釈することで、それまでの評論のなにかを切断したように思う。80年代、ロンドンやパリやニューヨークの美術シーンと東京が同一線上に並んでしまった。その代表的な人物は大竹伸朗だったりするのですが。それまでの「追いつけ」という目標が失われてしまった。それは日本の経済がバブルに突入するのと似ていたのだけれども、そこから急速にアートシーンが世界的に失速していくのです。それを椹木野衣は冷静に眺めていたという感じはしますね。この『「爆心地」の芸術』は99年から2001年までに発表した文章を纏めただけなので、一つのテーマにそって書き下ろされたものではないから、この本がどうのこうのと言うことはあまり意味がないのですが、私が全体から感じとったのは〈日本人に芸術は無理なんだ〉ということです。

斎藤 いきなり、ショッキングな結論ですね。なぜそう思うの?

永江 この本では村上隆や大竹伸朗が語られます。彼らは世界的に評価が高く、ある部分では世界と同等に追いついたわけです。しかしそこで逆に見えてくるのは岡本太郎や横尾忠則という、今になってみると評価されてしかるべき人が、同時代的にはまったく評価されてこなかったという現実です。抹殺といってもいい。それを考えると芸術という概念は、結局のところ明治期に日本に持ち込まれた舶来思想でしかなくて、日本人には根付かなかったのではないか。村上隆にしても奈良美智にしても、日本でウケているのは、彼らが欧米で鑑賞され了解され許容されるのとは違う文脈でしょう。この本に、横浜で行なわれた奈良美智の回顧展にあったヌイグルミのことが出てきますね。奈良のなかでは欧米でのアートの動きとシンクロしているのに、見る側ではたんなるかわいいヌイグルミにしか見えない。依拠するコンテキストの断絶を感じてしまう。だから、日本人に芸術は無理なんじゃないか、と。

斎藤 でも、村上隆にしても奈良美智にしても、とにかく「出てきた」わけですよね。意識的な芸術家である彼らが出てきたってことは、日本人に芸術はわからん、と一概にはいえないのでは? 彼らが出てくる土壌はどこにあるの?

永江 それは岡倉天心、フェノロサの時代と変わらないのでしょうね。

斎藤 選ばれた少数者は何か霊感を与えるものがあったり、美術史の流れに身を沈めていけるけれども、それを受け止める側がまったくその知識がないので「?」という感じなのかしら。

永江 欧米における芸術はあくまでハイカルチャーだけれども、日本に来るとサブカルチャーと捉えられてしまう。

斎藤 それは西欧中心主義の考え方ではないんですか? まー、映画やファッションなんかも、海外で認められたので、やっと日本でも評価されるというケースはよくあることですけど。

永江 村上も奈良も、いったん海外に出て評価を得て、また日本に戻って評価を高め、自分の中の内外水位差を埋めるという孤独な闘いをしているわけ。欧米というかキリスト教文化圏では教会芸術以来の伝統のなかでヒエラルキーがある。そのなかのアートであり反アートなわけです。ダダもポップアートも、その歴史の上に位置づけなければわからない。それが日本ではサブカルで「まあ、かわいい」でオシマイ。

斎藤 だけど日本にだって日本美術の流れってあるわけでしょ。

永江 いや、ない。「日本美術」っていう概念は近代になってから、欧米の美術に倣ってこしらえたものでしょう? 伝統的な日本列島にあったのは、美術や芸術ではなくて、道具でしょう。あとで取り上げる千野香織の『フィクションとしての絵画』を読むとわかりますが、日本絵画はお茶の道具であったり、建具(障壁画)であったり、お経の下絵(扇面法華経)であったりするわけです。

斎藤 しかし、キリスト教芸術だって道具でしょ。でもどこかで独立した芸術になった。日本にはその契機がなかったっていうことですか。

永江 ヒエラルキーがない。王朝絵巻を「きれいね」というのと、庶民が仏教説話の絵巻を見て「地獄はこわいな」というのと同じことになっている。

斎藤 日本ではみんな職人であって、作家性を問題にしてはこなかった、と。たしかにまあ、俵屋宗達なんかにしても個人で仕事をやっていたっていうより、工房ですものね。

永江 街のペンキ屋さんと同じ。それをたまたまフェノロサがオリエンタリズムで発見してアートとしただけ。もっとひらたく言えば芸術家に対する尊敬の念というのが日本人にはないよね。詩人や絵描きに対する尊敬はないし、とくに詩に対してはひどい。そこで90年代以降、日本の作家はマンガとかアニメと戦略的に結びついていくのは、単純にアニメのフィギュアをアニメアーティストが作ると面白いだろうな、ということではなくて、もっとシニカルな日本の芸術状況なり、普通の人が抱いている芸術感に対する皮肉で絶望的な何かとしてあるんじゃないのかな。爆心地、グランドゼロが日本っていうのは、そういうことなんだろうな。

斎藤 でも、そうは受け取られないわけですね。なるほどね。納得しておこう。しかし、とすると芸術家は孤独だね。この本は時系列でエッセイを並べただけで、あまり編集されてはいないけれど、アートシーンをたどっていくという意味では、題材との関係性を考えればいい作りですね。ただ、細かいことを言えば図版が小さすぎる。これでは本当にはわからない。村上隆を知らなくてもこの展覧会の解説を読めばかなりわかるようにできているから、ジャーナリスティックな編集であるわりには入門書としてもいいなと思ったんですが、いかんせん、写真がこんなに小さいのは美術書では致命的ではないでしょうか。

司会 私のように現代美術になんの知識もないものが読むと入門書としてはいいなあと感じました。いまこんなことになっているのかという状況が理解できます。

斎藤 椹木野衣の本は関係ない分野のアイディアを考えるときにすごく役立ちますね。この本の最初にリチャード・ハミルトンによるポップアートの定義が書いてあるでしょ。「大衆的であること,はかないこと,消耗品であること,金がかからないこと,大量生産できること,若者向けであること,ウイットに富んでいること,セクシーであること,まやかしであること,グラマラスであること,大儲けできること」とある。これの反対がハイアートと考えればいいわけね。たったこれだけのことでも知っておくといいと思います。

――「なる」とよくわかる――

司会 次は『美術の解剖学講義』(森村泰昌著、ちくま学芸文庫、2001年2月刊、本体1000円)に移りましょう。

斎藤 これは面白い本ですね。森村さんの本は作品もそうですがどれも読みやすいし楽しい。この本は講義形式です。人生論、写真論、大発見論、真贋論、セルフポートレイト論、女優論の6つの章からできている。セルフ・ポートレイトという、これも批評的アートなんですが、大阪出身のかたらしく、お笑いの要素がふんだんにふくまれています。ポップアートの本質とリンクしているような気がしますね。

永江 椹木野衣も書いているように、森村泰昌は最初登場したときにはキッチュ(俗っぽい)なものとしてバカにされたけれども、欧米で高く評価されてからは急に評価があがった。アラーキーにしても日本ではエロ写真家と受け取る人が多かったけど、海外で評価されると急に評価が上がったし。

斎藤 森村泰昌さんが最初に紹介されたときは、「変なことをやっている人が出てきた」というかんじだったよね。

永江 シンディー・シャーマン(1954年ニュージャージー生まれ。 ニューヨーク州立バッファロー校で美術を専攻後、写真に転向。1970年代後半からセルフ・ポートレイトによる作品制作をしている)のパチモン?って見られていたよね。実は私もそう思っていた。でもその後ずっと見ていくと、全くちがうことがわかってくる。

斎藤 このなかでとくにすばらしいのが写真論。カルティエ=ブレッソンの「決定的瞬間」とはいったいなんだったのか。写真論というのはいろいろあるけど、これだけわかりやすい「決定的瞬間」の説明ってちょっとないよ。スーザン・ソンタグの「写真論」なんかより勉強になっちゃったな(笑)。森村さんは評論家的なところもあるけれど、もともと実作者だから、作り手としての眼でみている。自分がセルフ・ポートレイトになるという発想の人でもあるから、わけのわからない「お芸術」をどう読むか、関心をもつキッカケとしてはとてもいいと思いますね。

司会 これは実際の授業ですか?

永江 ギャラリ−でやった連続講演会をまとめたものですね。先日、川崎市民ミュージアムでやった展覧会には、彼が扮装するときの道具が全部展示されていた。あの物量はすごい。これだけのお金と手間と時間をかけてやっているのか、と圧倒されました。彼の完成作品としては写真なのですが。

司会 パフォーマンス・アーティストみたいですね。

斎藤 完成形は写真ですが、あんなに全部のオブジェを工作として作っているとは思いませんでした。あるところで彼は高村薫の小説について書いていたのですが、彼女の小説に登場する主人公の男性に自分が「なる」ということを前提に読むそうなんです。そうすると「こんな男はいない」と気づくって(笑)。高村薫は男性的な作家だといわれているけど、じつは違っていて、すごく男に理想を求めていることがわかるそうなの。でも逆に普通にはいそうもない男がでてくるのが彼女の小説の魅力にもなっていると。だから何を見るときも、読むときも「なる」とよくわかるそうです。その視点が面白い。この本は編集もいいです。

――絵画を理解するには教養がいる――

司会 最後は『フィクションとしての絵画』(千野香織、西和夫著、ぺりかん社、1997年10月新装版刊、本体2800円)です。

斎藤 千野さんの本をどうしても取り上げたくて探したのですが、纏まったものはこれ以外には編者としてのものを除くとないのですね。「美術手帖」などの雑誌の文章を読むと戦闘的なフェミニズム批評家という感じでしたが。強く印象に残っているのは『女?日本?美?』(慶応義塾大学出版会)に収録されている論文。この本自体は何人もの人の論文集なのですが、これを読むと今の美術アカデミズムというか美大の教授たちは「腐っている!男はダメ!」と絶望的になる(笑)。『女?日本?美?』は論文というより論争にもなっていて、美術史にジェンダーの観点を持ち込んでいるの。たとえばヌードをどう考えるべきかとかね……。千野香織さんは若桑みどりさんのあとに続く人と見られていただけに、今年の初めに急逝されたのはびっくり、悲しかったですね。

司会 『フィクションとしての絵画』は建築史の西和夫さんと美術史家の千野香織さんの共著ですが、どう読んでも千野さんのほうが冴えてるように思えますが。

永江 この本は「美術分野の作品を取り上げ、美術史と建築史に身を置く二人の著者が各自の視点のもとにその作品を通して語ること、名品解説ではなく、著者が関心を持ち、興味を抱く問題を大切にして自由に論ずる」と西和夫のあとがきにあるように、彼は絵画にあらわれた建築としてしか語りようがないんだから。いわばアウェーで闘った西さんには、いささか分が悪いかな。でも彼の視点も面白いと思う。

斎藤 現代美術を理解するには知識の裏打ちがないとわからない、という話を先ほどしましたが、じゃあ「源氏物語絵巻」のような絵巻物をぼーっと見ていてわかるのかというとやっぱり知識がないとわからないということがわかったわ。

永江 そういう意味では和歌と同じ。成り立っている背景の教養の体系が見る側にないと鑑賞できない。そういうシステムです。それ単独での鑑賞を許さないからね。

斎藤 今日の話は絵画を理解するには教養がいる、ということでした(笑)。

永江 西洋美術だってギリシア神話や聖書に関する知識・教養がないとわからないのと同様です。素朴に「美しいものは誰が見ても美しいはずだ」という思い込みがあるけどそれはウソ。教養がない人には美しいものも美しいとは感じられません。

斎藤 特に現代の芸術はそうですね。批評的な視点なんかは前のものを知らないとわからない。音楽だって文学だって、ほんとはそうなんだよね。ただ、美術教育には絵画を描く実践的なことばっかりやらせてきたでしょ。それはそれでいいことだったと私は思っていますけど、鑑賞や絵画史の教育があまりにも少なかったという気がしました。

(司会・構成/國岡克知子)

 

©1998-2005 amushobo