――これで腰腹文化は取り戻せるの?――
司会 今回はベストセラーになっている本が2冊もありますが…。
永江 まず『声に出して読みたい日本語』(齋藤孝著、草思社、2001年9月刊、本体1200円)を斎藤美奈子はどう読んだのか、それが聞きたいな。これを読んで私はなんだかイヤな気持ちになった。売れる理由もわかるし、この本が編まれた理由もわかるんだけれど、なんとなくしっくりこない。そのイヤな気分の正体を斎藤さんに解き明かしてほしいのですが。
斎藤 最初読んだとき「あ、この本ちょっとおもしろいな」と思った。それはこの本のなかに出てくるテキストが私たちの知っているものばかりだからです。どっかで見覚えがあるな…というね、それを知っている自分がおかしいわけ。「知らざあ言って聞かせやしょう」とか「てまえ持ちいだしたるは、四六のがまだ」とか、全部知ってる自分が可笑しい。ところが後で、だんだん気持ちが悪くなってくる。テキストの選択が思いつきのように感じられるから。なんの脈略もないっていうか…。
「声に出す」と言っているわりには、後半になると黙読のために書かれた明治時代の普通の小説をもちだしてきてたりする。有名な小説である、という以外になんの理由もない。ただの権威主義なんだよね。それでもう一度見直すと「声に出して読みたい」といっているけど、これは声に出して読むテキストとしては全然ダメなわけ。「白波五人男」にしたって歌舞伎の台詞なんだから、もともと音声言語なわけでしょう。日本には語り物芸の伝統が脈々とあるんですよ。だから、そのまま児童劇団みたいに音読すればいいわけではなくて「語り方」があるはずなのね。「祇園精舎の鐘の声……」の『平家物語』は平曲だし、「四六のがま」の大道芸にしてもそうでしょ。
この本はいかにも音声を大事にしているようだけど音声文化をわかってない、と感じる。解説を読むと普通の国語の教科書みたいなことを書いてある。『風の又三郎』にしたって、あんた長岡輝子さんの東北弁の朗読を聞いたことがあるのかい、って感じ。そうでなくても「どっどど どどうど どどうど どどう」と発音したら腹筋が震えるとかさ、それなりの解説の仕方があるはずなのに、結局は意味に引きずられているだけ。著者は音声が大事といいつつも、本音は、戦前の国語教育に立ち返れってことなのだろうと思った。
永江 著者はこのテキストは明治時代より以前に生まれた人の文章から選択したそうですね。つまり、齋藤孝は明治の日本語こそがスタンダードな日本語であり、現代の我々はそこに立ちかえるべきだという思いがイデオロギッシュにあるのではないか。白川静の文字学を読んでもわかるように、言葉というのは常に変化しているのであって、その変化のプロセスを追っていかないと言葉の根源にはたどりつかないはずなのに、齋藤孝はぽつんと明治の一断面だけをとりあげて、今の日本人が立ちかえるべき所はここなんだ、と言っている。
斎藤 そう、特に根拠もなくね。
永江 「アイヌ神謡」のアイヌ語までも日本の伝統の美しい言葉、しかも母国語という言葉までつかってさ。これは文化的収奪でしょう。そこがイライラする理由かな。
斎藤 こうやってみると確かにすばらしいような気がするけど、「ここに日本語の宝石がある」といわれると、じゃあ現代には美しい日本語はないのかい? って切りかえしたくなる。谷川俊太郎はどうなんだ。五味太郎はどうなんだ。もっと子どもたちが好む、美しくてリズム感のある日本語は、今のテキストからいくらでも探せるよ。
永江 単純な復古主義なんだよ。昔はよかったという話ばかり。
斎藤 『身体感覚を取り戻す』で齋藤孝さんは昨年、新潮学芸賞を受賞しました。そしてメディアにひっぱりだこの人気学者になった。あの本では「今の子どもたちがキレやすいのは昔は下半身に力があったのにいまは上半身に重心が移ってしまったせいだ」というんです。そして「腰腹文化を取り戻せ」と言っているんだけど、その本の姉妹編というか実践編がこの『声に出して読みたい日本語』なんです。でも、議論があまりに単純なんだよな。
永江 身体性の回復なんていうことは、昔から何度もいわれてきしたね。70年代の終わりごろ『ことばが劈かれるとき』(竹内敏晴著、ちくま文庫)がベストセラーになりました。あれも身体性の回復がいわれていたし、市川浩の『精神としての身体』(講談社学術文庫)に代表されるように、哲学=現象学からも身体は注目されてきた。最近の鷲田清一のファッション論もその延長線上にある。言葉(精神)と身体の関係は何年かごとのサイクルで流行してきたわけで、なにも齋藤孝のオリジナルではない。
斎藤 市川浩は、もっと質がいいでしょう。齋藤さんは身体論といいつつ本当は精神論をいっているだけ。
司会 さきほど永江さんはこの本がベストセラーになる理由もわかる、とおっしゃったのですが、その理由はどこにあるのですか。
永江 第一に、今の日本語は乱れているから正しい日本語を取り戻そうという風潮がしばらく前から蔓延しているということ。大野晋の『日本語練習帳』(岩波新書)がヒットしたのと同じでしょう。もう一つ、第二にカラオケと同じで、声を出して読むのは気持ちいい、というのはあるよね。なんとなくダサかった朗読に違う角度から光を当てた。懐古趣味には合っている。しかも、テキストはみんなどこかで読んだことがあるようなものばかり。安心するし、不安な老人たちは癒されるというわけです。ベストセラーになる条件は誰もが知っていることの確認だから。
斎藤 なるほど。知っているものばかりなんだけど、忘れてたってことだね。『日本語練習帳』にも、そういえば旧制高校で漢文の素読をやらされたのがよかった、みたいな話が出てましたよね。
永江 もしも私が同様の本を書くなら、大脳生理学できっちり朗読の快感を解明してみたいと思いますね。
――『字統』『字訓』『字通』字書三部作のまえがきがコンパクトに読める――
司会 では次は『字書を作る』(白川静著、平凡社、2002年1月刊、本体1700円)です。
斎藤 これは専門性の高い本で読むのが大変だった。
永江 だけど、本の作り方としてはちょっとルール違反だと思う。
斎藤 どういうことなの? 初出一覧もないし、なんとなく不自然でわかりにくい。
永江 これは白川静の『字統』『字訓』『字通』という字書三部作のまえがきを抜粋したものでしょう。
斎藤 不親切ですよね。「本書は……」とあるから、何かの「まえがき」からとっているんだろうな、とは思ったけどその説明がないので。
永江 本の作り方としては不親切だから、これが白川静の本でなければボロクソにいうところ。でも考えてみると、あの三部作は高価なものだし、よっぽどの人でないと買わないでしょう。だけど、それぞれのまえがきに、白川の文字に対する姿勢、文字学のエッセンスは詰まっている。そう考えると、『字統』『字訓』『字通』という字書三部作は買えないけれど、まえがきだけは読みたい、エッセンスにだけは触れてみたいという人には、この本はとてもありがたい。たとえば、ヘーゲルの『精神の現象学』を岩波書店の上下巻本で読むのは大変だけど、その序文だけを未知谷からでている本で読むのに近いかもしれない。
司会 それならそう書いてくれればいいのにと思いますね。この本自体にはまえがきもなければあとがきもない。どういう経緯でつくったのか編集部からのメッセージもないし…。
斎藤 平凡社の本にしては、そのあたりが杜撰ですね。初出とかこの本の成立の由来とかをきちんと書かないと読者が迷ってしまう。
永江 そう。担当者は猛省すべき。今からでも遅くはないから、増刷分からはちゃんと明記すべきだよね。
それはそれとして、白川静のこの本は文字を固定したものと考えないところが新鮮です。文字は時代によって変化し続けていると著者はいう。私たちも、その変化の流れの一部分に立っているにすぎない。
これを読みながら連想したのはワープロの文字数が制限されている、文字数が少ない、と一部の作家が騒ぎ出したこと。文字数に制限があるからワープロ文化は日本語を破壊すると・・・。彼らは日本語の文字を固定されたものとしてしか考えられないのですね。
でも白川静は違う。『字統』にはこうあります。「本書の収録字 この書にはすべて六八〇〇余字を収めた。字数としては、一般の中字典が約一万字前後を収めるのに対して、これよりやや少ないが、常用漢字の一九四五字にくらべると、約三・五倍に近い字数である」(p140)。中国の文献には、多くの字が用いられているように考えられますが、『論語』には一三五五字だし、『四書』には二三一七字です。そういう話から考えれば六八〇〇字あれば十分なんだ、ということですね。いつも漢字は無限にあってそれ全部がないとコンピュータに納まりきらないから、パソコンで漢字を扱うのはそもそも無理なんだ、といわれがちですが、それは固定観念でしかない。
斎藤 森鴎外の鴎の旧字がでないとか、文句を言う人は多いね。永江さんの話にあったように六千年以上という、気が遠くなるような時間をへた文字の変遷を追う作業をやってきた人からみたら、たしかにワープロ文化は日本語を破壊するなんて言い出すことはちゃんちゃらおかしいかも。
永江 漢字は甲骨文字からずっと発展してきて変化し続けていて、いまだにそれを使っているのはおもしろいことですよね。亀の甲羅に書いて刻み込んでいた文字をですよ。
斎藤 言葉は変化するというけれど、文字も変化してきたという話はおもしろい。最近、文春新書で出た高島俊男さんの『漢字と日本人』にもそんな話が出てきてたけど、漢字の象形文字を、日本語の音を表すのに強引にあてはめたり飼いならしたりする作業って、考えただけで気が遠くなりますね。
司会 白川静さんの仕事というのは本当にすばらしいし、生き方もうらやましいですね。九十歳になってもまだまだ仕事が発展途上というのが…。この本の内容自体はとても濃いですね。
斎藤 最初は気楽に寝転がって読めるかなと思って開いたところが、おお、これはちゃんとした本だ、居住まいを正して読まないとダメだな、と思った(笑)。
永江 すごく淡々としているし、礼儀正しく書いているけれど、藤堂明保などとの論争は相手のどこがダメなのか容赦なく叩くでしょ。叩き方が論理的で、相手の論拠の誤りの根源をきっちり指摘する。それがカッコイイ。
斎藤 ほんとかウソかわからないような素人さんむけの啓蒙書を、藤堂さんは山ほど書いていましたからね。漢字の起源がどうしたとかさ。白川さんは、学者生命を賭けて、それをやっつけている。
永江 言葉の由来とか漢字の由来をしったかぶりをして言う前に、白川さんの字書を引いて甲骨文字までさかのぼって考えろといいたいですね。
――英語はとにかく「読むこと」が大事――
司会 最後は100万部以上売れている大ベストセラー『ビッグ・ファット・キャットの世界一簡単な英語の本』(向山淳子、向山貴彦著、幻冬舎、2001年12月刊、本体1300円)です。
斎藤 この本が出来上がった経緯ですが、著者の向山貴彦さんは『童話物語』というファンタジーを出しています。しかしファンタジー作家だけでは食べていけない。そこで「よし、ひとつベストセラーをつくろう」ということで英語教師をしているお母さまと組んでこの本を書いた、と聞いたのですが本当なのでしょうかね。
司会 そんなふうにしてベストセラーができるならそれはすばらしい。
永江 戦後のベストセラー史が『日米英会話手帖』から始まるように、ベストセラーリストに英語の入門書は昔からよく顔を出します。そして、どれを読んでも「なるほど、これなら簡単に英語が身につくぞ」と思わせる。この本もそういう意味では同様です。では本当に英語ができるようになるのか、というと疑問ですが。
斎藤 読んでいる間は「なるほど、なるほど」と思うけれど・・・。この本のユニークなところは「英語は読むことが大事である」というところ。日本人は読み書きはできるけど、聞いたり話したりする英会話がだめだといわれてますよね。この本の主張は、しかしそうではない。まず読むことが基本で、読めるようになれば会話もその延長線上にあるから自然できるようになる、というところが新しいところかな。コンプレックスをちょっと和らげてくれますよ。「あ、読めればいいのね」と。
永江 書店の棚を見ても、今の英語入門書は、英会話かTOEIC対策かのどちらかがほとんど。まずは会話能力、というのがニーズでもあった。ところがインターネット時代になって少し変わってきた。ネットで海外のサイトを見るには、まずは読む能力が必要です。会話重視の本が多いなかでこの本はいい本だと思いましたよ。英語の基本形を単純化して大づかみに捉えるのもわかり易い。だけど、それだけじゃ使えない。やっぱり語彙数がないと、海外のニュースサイトひとつ読めない。じゃあ、問題はその語彙数をどうやって増やすか、単語をどうやって覚えるかなんだけど、そこのところはたくさん本を読んで地道にコツコツやるしかないみたい。やっぱり、英語にも王道はないってことかな。
斎藤 少し前に『これを英語で言えますか?』(講談社インターナショナル)という本があったでしょ。あれも売れたよね。
永江 あの本は実用性がなくて、「ホッチキスって英語かな?」とか普段の日常のなかで「これをどういうかな?」って困ったときに読むもので雑学系ですね。知らなくても生きていけるけど、知っているとちょっと自慢できるような実例が満載というわけ。この本よりももうすこし英語がわかっていないと。
斎藤 この本には、まずネコとエドという少年がでてきて、最後にこの人たちの物語がでてきて、これを読めるところまでいきますよ、ということですね。夢をもたせる。
永江 おすすめ書籍は私にはちょっと賛成しかねるものが多い。中年男が内容にも興味を持って読めるものは少ない。セサミストリートの絵本なんか読んでどうする。
斎藤 たしかに、もっと大人っぽいテキストがあってもいいよね。ファンタジー小説が多すぎる。いまさら『ハリー・ポッター』でもないだろうよって。
永江 『声に出して読みたい日本語』の読者は、あれを読んで癒されるのだろうと言いましたが、もしかするとこれもオヤジの癒し本かも。このなかの英文はすごく易しいでしょう。だから「オレでもわかる」「オレも英語ができるようになった」と勘違いしそう。その勘違いがいい方向に働けばいいけど、じゃあ『朝日ヘラルドトリビューン』をずんずん読めるかというと、そうはいかない。本に載っている例文と、実際に大人たちが直面しなければならないテキストとの間にはギャップがある。その間をすっとばして、この簡単な小話が読めれば「オレだってちゃんとやれば英語が読める」と思わせるところが、ヒットの理由かもしれない。
斎藤 ひえー、これも「癒し系の本」なのか。イザとなったらなんとかなる、と思わせ癒し本。しかし、この本が100万部をこえるベストセラーとは驚きです。「当てよう」といって当たったのだとしたら、それだけでもスゴイなあ。
(司会・文・構成 國岡克知子)