――江戸の女は混浴が好き?――
司会 テーマは温泉ですが、どれからはいりましょうか?
永江 『混浴宣言』(八岩まどか著、小学館、2001年12月刊、本体1500円)からにしましょう。これは八岩まどか温泉三部作の一冊です。『温泉と日本人』『温泉と共同湯』そして本書『混浴宣言』。なかでも彼女が一番書きたかったのは混浴だったようです。この本には大きく分けると三つのポイントがあります。まず近代以前と近代以後の混浴弾圧の歴史。次に最近は「混浴ブーム」といわれているそうですが、その実態はどうなっているのか。三番目が混浴を経験することによる女性の意識の変容。弾圧の話は江戸時代の混浴禁止令が有名ですし、けっこう知られているかもしれません。それよりも面白かったのは、意識の変容。若い女性は混浴に警戒感や嫌悪感を持っている。そのときの彼女は、男たちから見られる自分しか考えていない。ところが実際に混浴を体験すると、違うんだというんです。そこでは自分は他人から見られるだけではない。他人を見ている自分もいる。意識の変容が起こり、「見られる自分」から「見る自分」へと主体の取り戻しがある、という。これは著者にいわせると、「温泉独特のホンワカした感じとか癒しとか見知らぬ人と会話が成立して触れ合いができる、というあたりに理由があるのではないか」、ということですが・・・。
斎藤 温泉ブームはずっと続いているけど、混浴もブームなのですか?
永江 知らなかったのですが、そうらしいですね。温泉ブームがあり、その次に秘湯ブームがあった。その延長のようです。たしかにネットで検索すると「混浴温泉巡り」のサイトがたくさんある。もちろんエロ系のサイトではなくて普通の人の情報交換です。混浴巡りラリーのようなことをしているファンもいる。その一方で厚生労働省側では徹底的に混浴をなくしていきたい、という強い意志がある。八岩がこの本を執筆した動機の一つは、有馬温泉の旅館主が風呂場を混浴に改装しようとしたら、保健所が営業許可を出さないというところから。風呂なんてどう入ろうと自由なのに、いつもオカミが横やりを入れてくる。江戸時代も庶民は混浴賛成、幕府は禁止令を出す。なんか現在と似ていますね。
斎藤 この本は私にも意外な発見がいっぱいありました。『混浴宣言』という書名で著者は何を語ろうとしているのか興味津々だったのですけど、ほんとに「混浴宣言」なのね。若い女性の友人を混浴温泉につれていく話から始まり、最初は躊躇していた彼女が、そこで「見られる自分」から「見る自分へ」と意識が変化する。そこを前振りに、歴史編へとつなげていくのが上手いなあって。歴史編のなかで面白いのは江戸幕府の混浴禁止令。これを何度出しても破っていくのはいつも女だった。それなのになぜ、現代女性は混浴が嫌いになったのか? それは戦後高度成長期の社員旅行。オヤジたち=上司のエロな視線が混浴温泉をすっかりイヤなものに変えてしまったというのがおかしい(笑)。なるほど繋がっているなあと。男湯と女湯を分けるとはどういう意味があるのか、改めて考えさせられましたね。浴場の話ではあるけれど、ややオーバーにいうと、もう少し広い意味での身体論とかジェンダー論への入り口になるところがありますね。
永江 『ざぶん』(嵐山光三郎著)ともつながるんだけれど、温泉というところはアジール(解放区)として機能している面がある。特に混浴はそうでしょ。だから時の権力者たちは一番嫌がる。しかし『ざぶん』でも、文学者たちが新しいものをつくり出そうというときには、いつも温泉に出かけている(笑)。混浴に限らず温泉や公衆浴場の果たしている役割は大きいのかもしれない。
斎藤 そうかもね。『浮世風呂』ってくらいで。なぜ江戸時代に混浴禁止令があったのか。それは別にエロティックだからじゃないんですね。「男と女は上下の関係であるのに、階級を無視して一緒に風呂に入るとは何事だ」ということでしょ。いわれてみればなるほどと納得。つまり衣服を脱いでアジールのようにぐしゃぐしゃしてしまうことで、衣服を着ているときに成り立っていた階級社会の基盤を壊すんですね、無意識に。
永江 そういう意味では銭湯が消滅しはじめ、家庭に風呂があるのが当り前になることは、社会もそれによって変化せざるを得ないのかもしれません。著者によると、混浴にもっとも拒絶感が強いのは50代の団塊世代の人たち。戦後のピューリタン的教育というか、「男の子、女の子」という意識が強烈に植えつけられた世代ですよ。女を男の目から保護するというかたちで隔離して、実はもっと強い対立を生み出していったのかもしれない。
司会 戦後高度成長期に社員旅行でいやな思いをさせられた世代だからかもしれませんよ。
斎藤 そうそう。社員旅行がイヤなばっかりに会社を辞めた女性を何人も知っています。そのとばっちりで温泉までいやになったりして。
永江 つまり「見られる自分」を押しつけられたわけだ。だけど、もういちど混浴を経験すると、見られると同時に「見る自分」も取り戻せるよ、ということ。それにしても、男にだって社員旅行がいやな人はいる。友人でも社員旅行は拒否し続けているヤツがいます。私は幸か不幸か、社員旅行も社宅も経験ありませんが、社員旅行、社宅など、社のつくものが労働者を会社に縛りつけ、むしばんできたガンですね。
斎藤 温泉はもともと病いを癒す湯治場だった。それがどこからかレジャーになる。ひなびた混浴は湯治場の伝統なわけで、わりと最近までひっそり続いてきたのに、急にブームになって脚光をあびて、その結果お上から潰されていくのは理不尽ですよね。
永江 混浴禁止派も混浴拒絶派も「いやらしいからダメ/イヤ」というわけですが、著者にいわせれば「いやらしいからいい」わけで、エロティックな刺激が日々の生活を活性化させていく。
斎藤 よくある「子宝の湯」が、本当に「子どもを仕込む湯」だったかもしれないという下りにはびっくりした。湯気がもうもうと立ってる中では、日常と隔絶された幻想的なエロスがあったのかもしれない。
永江 もしも混浴にそういう要素がなかったら、まったくつまらない。エロスを禁じた社会は不気味だし、必ず衰退していくと思うな。
――日常的な銭湯の蘊蓄を知る――
司会 次は『銭湯の謎』(町田忍著、扶桑社、2001年11月刊、本体1143円)です。
永江 面白いことは面白いけど・・・斎藤さんはどうしてこの本を選んだのですか。
斎藤 書店の「温泉フェア」のコーナーで見つけたのですが、温泉の本というと名湯紹介風の随筆とかが多いでしょ。それでちょっと違う角度から、観光とは切れた日常的な銭湯の話が知りたいなと思ったのです。まずレビューすると、著者は全国の銭湯を巡り歩いて銭湯の文化論をやろうとしている庶民文化探究家です。歴史編と建築物編と雑学編から構成された雑学集といったところですが、一項目が短すぎてぶつぶつ切れているので、もうちょっと読みたいというところで話が終わり。突っ込みが足りないのが残念。
永江 巻末の「銭湯自分史」なんていう日記式書き込みページで枚数を稼ぐなよ、と思っちゃった。
斎藤 そうですね。あと、さっき混浴がいやだという話がでたけど、同性同士でもいっしょにお風呂に入りたくないという人がいるでしょ。銭湯体験がゼロの若い人やずっとパラサイト・シングルの人たちには、この本はつまらないかもしれない。私たちの世代は小さい頃に親と銭湯に行った記憶もあるし、一人暮らしを始めたときは風呂なしアパートが普通だったから、銭湯は当たり前だった。4年間で最低でも10箇所くらいの銭湯は経験したよね。行きつけの銭湯は一箇所だけど、友達の部屋に泊まったときには別の銭湯に行くとか、引っ越してみたら近くに豪華な温泉のみたいな銭湯があってタイル絵がすばらしいかったとか、けっこう楽しかった。そういう経験が少しでもあると、この本の薀蓄が「そうそう」って感じで面白いんだよね。ペンキが描かれるまでの行程とか。湯上がりに飲むのはコーヒー牛乳じゃなきゃいけないとか。くだらないんだけど。
永江 私も学生時代は銭湯ユーザーでした。雨の日や寒い日はおっくうだし、真夏の暑い日は帰りにすでに汗だくだしと、当時は風呂つきの住まいに憧れたけど、いま考えるといい経験だった。素っ裸で他人のなかにいるという経験は、ともすれば過剰になりがちな若者の自意識を、「誰もお前のことなんか見てないよ」となだめてくれた。成人するまで銭湯の利用を義務づけたらどうだろうね。
斎藤 そう思う。人間っていろいろだなあと知るだけでも貴重ですよ。混浴じゃなくても。
永江 ところで、この本では少ししか触れられていないけれど、最近のスーパー銭湯は地域の環境問題になっているんですよ。
斎藤 スーパー銭湯は健康ランドとはちがうのね?
永江 健康ランドとは似ているけれど法律上は違う。健康ランドは風営法にひっかかるので住宅街にはできないけど、スーパー銭湯なら住宅街のなかにも作れて規模も大きくできる。ところが実際はほとんど同じ。遠方からもクルマでどんどん人が来ることになる。渋滞はするし、路上駐車は増えるし、住宅街の生活道路が迂回路になる。住民は大迷惑。
斎藤 そうか、そういう今風の銭湯文化についても書いて欲しかったね。「東京ウォーカー」の姉妹誌で「東海ウォーカー」というのがあるんですよ。それの特集で「デートで銭湯にいこう」みたいなのがあって「ほう」と思ったことがある。名古屋近辺は健康ランドが多いから、お風呂に入って飲み食いもできるという場所がデートに使えるらしいのね。地域によっても銭湯文化はだいぶ様子がちがうのかもしれない。この本によると、銭湯建築も東京は歌舞伎座風の日本建築だけど、大阪は洋風のモダン建築だというし。
司会 これを読んでいてびっくりしたのは、昔は銭湯の番台は湯船のほうを向いていましたが、今はちがうんですね。
永江 入口がカウンターというかフロントになっていて、脱衣所も見えないように変わったんです。
斎藤 やっぱり「見る/見られる」問題は大きいんでしょうかね。私は番台の人なんか全然意識しなかったけどな。置物みたいなもんで(笑)。お医者さんと同じというか・・・。
永江 この本はもっとカラー写真をいっぱい入れればよかったのにね。ペンキ絵とか面白い写真がたくさんあるんだから、もう少し高くなってもカラーにして見る楽しみを増やすべきだった。
斎藤 そうですね。カタログになってたら保存版なんだけどな。
――するめと古雑誌をつめこんで、いざ温泉宿へ――
司会 では最後に『ざぶん――文士温泉放蕩録』(嵐山光三郎著、講談社文庫、2001年12月刊、本体695円)。これは私が選ばせていただきました。この本のレビューは裏表紙にかいてあります。「日本の近代文学は湯ぶねの中から生まれた。東に締め切りから逃げてくる先生あれば、西に世を忍び不倫に走る作家あり。温泉は時に彼らを癒し、時に虜にする。夏目漱石、森鴎外から川端康成まで。知られざるエピソードを混じえながら、古き良き時代の温泉とそこに遊ぶ文士たちの交流を描く、異色温泉小説」となってます。
斎藤 読んでびっくりだった。まさかこういう本だったとは。
永江 『文人悪食』の温泉版だろうと思って読み始めたら、評論ではなくて小説だった。
斎藤 そうなんです。むしろ『日本文学盛衰史』の温泉版みたい。最初は山田美妙と尾崎紅葉と石橋思案がお風呂のなかでぐちゃぐちゃだべっている。そのたぐいの逸話が34話もある。
永江 だけど、たしかに日本文学と温泉は縁が深いかもしれない。文学史を見ても、修善寺は漱石が吐血して危篤状態に陥ったり、梶井基次郎が宇野千代にいいところを見せようと川に飛び込んだり。明治文学の要所要所に温泉が登場する。正岡子規と夏目漱石は道後温泉だし・・・。藤村は小諸の温泉に入っている。
斎藤 川端康成なんて『伊豆の踊り子』と『雪国』、温泉文学だけで有名になったようなものだしね。
永江 やっぱり今の我々にとっての温泉と、当時の感覚はちょっとちがうんだろうな。アジールというか別世界に遊ぶ感じは今よりずっと強いんでしょう。温泉がなかったら日本に近代文学はなかった、とはいわないけれども、ちょっと違うものになっていたかもしれない。
司会 ノンフィクション・ノベルみたいですね。最初の出だしがおもしろい。「・・・宿には、段ボール二十一箱ぶんの文献資料古雑誌をつめこんで、するめ七束と一緒に持ちこんだ。温泉の霊気と、古書と焼するめの香が、諸君を昔の文人の温泉魔境へいざなうはずである。さあ、もう一度湯につかるぞ。ざぶん。」
斎藤 で、お湯の中から再びざぶんと出てきたときには、もう別世界。かなりの物語が、特定の文学作品の創作秘話になってるんですね。尾崎紅葉が旅館の娘のお宮に金だけまきあげられて『金色夜叉』を書こうと思ったり。ほんとかよって(笑)。これさ、一話ずつに分けて、それぞれの文庫に解説がわりにいれたら面白いよ。しかめっ面して文学読むのがバカバカしくなる。しかしまあ凝ったつくりの小説ですね。温泉と文学史。たぶん著者が大好きな二大分野なんでしょうね。ちょっとグルメの要素だけが足りないけど。
永江 まあそれは『文人悪食』に譲るとして、こういう小説の書き方ってあるのかと感心しました。いいねえ。
斎藤 しかし、昔の人たちはほんとにこんなに温泉に行ってたのかな。湯治には行ったかもしれないけど、いまほど交通機関は発達していないわけでしょう。
永江 でも、札幌なら定山渓、仙台は秋保、東京なら箱根・熱海・湯河原・伊豆、阪神は有馬と、大都市の近くには必ず温泉がある。意外と身近だったのかもしれない。温泉というと、旅行会社のパンフレットや女性誌に紹介される豪華な名湯・名門旅館を思い浮かべがちだけど、実際にはずいぶん安い施設もある。
司会 するめと資料を宿に持ち込んで温泉三昧で書きまくるというのは文士の夢でしょう。
斎藤 作家になったあかつきにはぜひそうしたい、と思う人はいるでしょうね。実際にそれをやったら、退屈で三日と持たない人も多そうだけど。
永江 この小説の初出は「週刊現代」ですね。『日本文学盛衰史』は純文学の文芸誌『群像』の連載だったから、いろいろと純文学的な仕掛けが必要だったけれども、これは大衆を読者にしなくちゃいけないから、だれもが知っている文士と週刊誌読者ならだれもが好きな温泉というキーワードをもってきて、あとは好きなように書けばいい。いいなあと感じました。これぞ大衆向け文学の神髄だ、なんて思いましたね。
斎藤 長さもちょうどいい。週刊誌の一回分の分量なので、スパスパ読めて、ざぶんとお湯をかぶって、ああサッパリしたという感じ。長風呂でのぼせることもない。良質の読み物だと思いました。
(司会・文・構成 國岡克知子)