――「ほめ殺し」からメタ批評へ――
司会 最初は『クラシック批評こてんぱん』(鈴木淳史著、洋泉社新書y、2001年8月刊、本体720円)です。
斎藤 この本に関してはまず「正誤表」問題をいわずにはいられない。正誤表問題とは何かというと、表紙の著者名に誤植があったのに、出版社がこの本を回収しなかったってこと(注:正しい名前は鈴木淳史だが、鈴木敦史と印刷)。その上、正誤表には以下のようなことが書いてある。
<注意書きへの注>本書は著者名が間違っています。正しくは「鈴木淳史」です。編集者が校正中に読んでいた池宮彰一郎『本能寺』(毎日新聞社)に頻繁に登場する幸若舞「敦盛」の修羅の苦しみと浄化が本書の内容を彷彿とさせたために、「淳史」を「敦史」に変貌させてしまったものであり、本書の内容に関してはなんら影響するものではありません。
こんなに開き直った正誤表って、どうかしてない?
永江 回収しない、謝らない、ばかな正誤表をつける。これはお客=読者にたいしても失礼だよね。著者にたいしても読者にたいしてもナメてかかっている出版社なんだな、ということがとてもよくわかる。
司会 そういう体質の出版社なんですか?
永江 宝島社の子会社ですね、洋泉社は。
斎藤 刷り直すと赤字になっちゃうでしょうけど、それにしても普通なら青くなってやり直すでしょ。
司会 刷り直さなくても、シールを貼るとか、何か手当てはしますね。
永江 著者の鈴木さんが笑って許したのかもね、推測すると・・・。しかし、著者はそれでよくても、読者には失礼ですよ。もし同じようなミスを、鈴木がここで取り上げている吉田秀和や黒田恭一といったクラシック批評界の大御所について犯した場合、出版社は回収もせずにふざけた紙片一枚で済ませただろうか。
斎藤 人間だからミスをすることもあると思うけど、事後処理の仕方が信じられないよね。ま、気をとりなおして内容の話をしましょう。この本のタイトルは『クラシック批評こてんぱん』だけど、必ずしも「こてんぱん」にこき下ろすということではないような気がしますが。
永江 前の本が『クラシック名盤ほめ殺し』(洋泉社新書y)だったでしょ。あれはほんとうに名盤、名演といわれているものを「ほめ殺した」わけですが、これはからかっている感じですね。
斎藤 完膚無きまでに叩きのめしてやろうという感じではない。題材はクラシック批評ですが、音楽批評じゃなくて、むしろ文芸批評に近い。文章をマナイタに乗せてるわけだから。批評の批評、優れたメタ批評として、楽しみました。
永江 批評する側は、自分も批評されるとはあまり思ってないものね。
斎藤 そうそう。そういう批評家の盲点をついてるの。
永江 しかもクラシック音楽の批評にはその世界独特のモードと体温があって、彼のような若い世代から見ると「変だ」と感じるのでしょう。その違和感をテコに、からかってやろうという思いが伝わる。
斎藤 からかいつつ面白がってやろうじゃないのという、読者へのサービス精神も溢れています。
司会 これだけ書くのは大変ですよね、かなり勉強していないと。
永江 斎藤さんの批評のスタイルとちょっと似ているよね。
斎藤 そうかな。性格の悪さが似てる?
永江 ただ、自動車批評には自動車批評の、モード批評にはモード批評の、独特の空気があるけれども、なかでもクラシック批評は特別だと思う。いつか斎藤さんも書いていたけど、一般誌ではやたらと啓蒙主義的だったり、専門誌では妙に自意識過剰であったり。そこらへんをうまく針で突っついている。
斎藤 そうだね。大ナタを振り下ろすんじゃなくて、ディテールをチクチクやるのね。音楽批評って、おもしろいのかも・・・・・・と錯覚しちゃいそう。ただ、著者がうまくナビゲートしてくれるからこの本は楽しいんだよね。文芸批評がつまらないといわれるけど「書評こてんぱん」みたいにこのスタイルでやれば、いろんな人の批評スタイルがあるから面白いかもしれない。
永江 クラシックに限らず、一昔前の音楽評論は不健康だったと思う。たとえば巨匠が来日したとき、プロモーターから招待されたりチケットを融通してもらってコンサートを聴き、批評を書く。レコード会社から解説の仕事をもらいながら、レコード評を書く、というようなことがある。ところが70年生まれの鈴木さんの世代になると、格安航空券でヨーロッパにどんどん行って聴いてくる。どれだけ本物を聴き現場を見ているかを比較すると、彼ら若手も負けてはいないかもしれない。インターネットと格安航空券の時代でクラシック批評は大きくかわったのかもしれません。
斎藤 だから無用にありがたがりもせず、フラットな目で面白がることもできるし、こき下ろすことも出来るし、からかっても平気。インフラは大事だねえ。
永江 これを軸として、ほかのジャンルの批評を読むときにいろいろ考えさせられる。たとえば書評とか文芸評論というのは、構造的に出版のシステムと密接に関わっている。単純に言えばA社から原稿料をもらっている批評家がA社から出ている本について批評しなきゃならない、ということは日常的にある。それって旧世代のクラシック批評とそっくりじゃん、って思ったりして。
斎藤 それ、文芸誌の編集者にいってやってよ。辛目に書くと「ちょっとご相談が」とかっていわれるのは、必ず自社製品の場合です(笑)。
――ストリートで考える流儀――
司会 次は『路上の症候群――1978―2000』(松山巖著、中央公論新社、2001年10月刊、本体3200円)です。
斎藤 70年代の終わりから20年間分くらいの量がある。いろいろな雑誌に書いた小さなコラムを集めたものなのに、全部通して読むと、ちゃんとした時代論、都市批評になっています。
永江 最初は70年代的な語り方でなつかしい。松山さんというと、やはり『乱歩と東京』や『都市という廃墟』などの都市論的アプローチが強烈な印象としてあります。その周辺で書かれた短いエッセイ群ですね。
斎藤 『別冊宝島』の第1号が「全都市カタログ」だったでしょ、その頃を思い出したな。街を語り、路上で考えつつ、しかも本とか映画とか文化ネタが入ってきて・・・。ストリートでもの考える流儀のはじまりがあのへんだったんですね。
永江 難点からいうと、新聞とか雑誌の比較的短いエッセイばかりだから、松山さん独特の彷徨感がちょっと足りない。雑誌で読むと気持ちがいい文章が、こうしてたくさん集まるとちょっと違って見えてくる。とくに結末の一語が気になりました。読者をジーンとさせて余韻を残してフェイドアウトしますよ、という感じのパターンが多い。それはいろんな人の文章が並んでいる雑誌では効果的なんだけど、松山さんの文章だけが並ぶと……。一気に読まずに、少しずつ読むといい本かもしれない。初出一覧を見ると「朝日ジャーナル」をはじめ、消えてしまった雑誌ばかりでしょ。それがまたおかしいのだけれども、ああいう雑誌の中ではきらっと光ったいい感じの文章なんだよね。それぞれのテーマを追った彼の長篇エッセイを読むと、これとはまた全然違う呼吸で書かれているけど。
斎藤 ここに出てくるのはジャーナリスティックな雑誌的なネタが多いから、そうなるのはしょうがないのかれませんね。たしかに単発コラムの呼吸でいちいち凝ったレトリックで落とされると「また?」って感じはあるけれど、
あえて書き直さなかったのでは。しかし、読むと、だいたい松山さんは静かに怒ってますよね。町がぐずぐずに壊れていく感じがやりれきれないというのか。
永江 彼は東京のど真ん中、それも東京タワーの足元のようなところにずっと住んでいて、定点観測的に戦後を見てきた。それが大きいですね。おじいさんが建てた家にずっと住んでいるわけでしょう。建築のプロでもあるし。
斎藤 ボーっとみていないんだろうな。それかボーっとしていてもなにかセンサーが働くのでしょうか。
司会これを読むと松山さんは実によく歩いています。現場を必ず足で確かめて書いている。
永江 この本の最初のコラムに出てくる高島平団地の風景。すごく暗いでしょ。あの頃も悲惨な風景だったみたいだけれど、今はもっと陰惨ですね。住んでいる人には悪いけど。私も何度か歩いたことがあるけど、街全体がじとーっとした空気で。あの頃入居したひとたちも老齢化してさらに暗い雰囲気をかもしだしている。
斎藤 芹沢俊介さんにも高島平団地自殺論があるでしょ。ある種、戦後高度成長の行き着く果てという光景だった。松山さんのコラムも1978年ですね。
永江 20年経って読んでみてもこの文章はインパクトがある。このコラム集全体を読んだ印象もすごくよかったし、メディアで消費されることもなく落ち着いて見てきた人なのでしょう。
斎藤 これだけの物量があると、一貫した時代の流れも見えてくるし、書き手の筋の通ったところも見えてくる。こういうエッセイ集というのは2〜3年分をまとめてしまいがちですが、20年、30年間がまんして、忘れたころに
何十年というスパンというか長さでまとめる価値というのはありますよね。やっぱり去年出た『ザ・グレーテスト・ヒッツ・オブ・平岡正明』て本も作り方がちょっと似てたな。平岡正明さんの三十年分くらいの文章を、四方田犬彦さんがまとめたやつで。重松清さんに教えてもらって読んだんですけど、あれなんか、この本以上に物量の勝利。みんな性急に本をつくりますが、もうすこしがまんして溜めてから出すといいのかもしれない。
――ズルズル観たよ――
司会 最後は『きれいな猟奇――映画のアウトサイド』(滝本誠著、平凡社、2001年9月刊、本体2500円)。
永江 これは著者の熱狂的なファンであるライターがいて、その人が滝本氏の書いた文章を全部かき集めてきて編集した本です。著者はマガジンハウスの編集者で『自由時間』や『ブルータス』などの編集をしてきました。ときどき自社の雑誌にも署名コラムを書いています。この本の面白さは、映画評論でありながら、それぞれの映画の評価はいっさい書いていないところにある。いい/悪い、おもしろい/つまらない、といった二分法で語らない。映画を語りながら、そこからずれて、本の話になり、それもミステリから重い本まで・・・・・・。そのうちモダンアートの話に移っていき、あっちにフラフラこっちにフラフラ。それであの映画は結局どうなの?ってきいてもはっきりしない。だらしないオヤジという雰囲気が伝わるでしょ。実際にジャン・レノみたいないい具合にヨレたオヤジですけど。
斎藤 やさぐれたオシャレさね。装丁もオシャレで、けっこう通好みかも。
永江 いかにも『ブルータス』の編集者が本業をさぼって映画の試写会に行ったりしながら書いた文章を集めた、ゆるい感じ。
斎藤 ツイン・ピークスのマニアだった人なんかは胸キュンでしょうね。ただ、ゆるいとはいえ、これは人体フェチっていうのかな、ある種の共通したテーマがいちおう流れているわけですよね。タガがはずれてはいなくて、なんとなくひとつのテイスト、ひとつのテーマにそって編みました、という感じ。
永江 植草甚一のような良質なスノビズムを感じるんだよね。なつかしさかな。評論っていうと語りを楽しんだりプロセスを楽しむ、というより、「この映画何点?」という話にすぐにいってしまうでしょ。たとえば「55点」といわれると「じゃあ、見なくていいね」となる。でも滝本氏は何点かは言わないけれども「ズルズル観たよ」というゆったりしたエッセイです。
斎藤 たしかに七十年代の晶文社的な感じがあるかもしれない。「散歩と古本が好き〜」といっているニュアンスですね。こういうさあ、役にも何にも立たないもんが、かっこよかった時代が、そういえばあったんだよね。こういったスノッブな感じというのは、好き嫌いがあると思うけど、残しておくべき。いつから、こういうのが消えちゃったのかな。
永江 遊びの部分がなくて「これ何点?」という採点主義ばかりでしょう、最近の評論は。それか商品情報垂れ流しの広報マンか。すぐに「この本の欠点はね・・・」という減点法でみんな評価したがる。
斎藤 滝本さんなんて、評価どころか、下手するとレビューもしてないもんね。これはこれこれこんな映画ですとか、こんな本ですって説明もしてるようでしてない。エッセイを身辺雑記のことと誤解している人がいるけど、たぶんこういうのがほんとうに正しいエッセイのあり方なんじゃないのかな。妄想をかたっているように見えつつも、なにかそこに思想があるんだなってのだけはわかる。採点主義かどうかはわからないけど、書評を書くときも「褒める、けなす」という二分法で考えられるがちではありますね。答えを求めてるっていうの?そこを越えたところにいかないと、たぶん書評って意味がないんじゃないかと思ってるけど、だれもそう見てくれない。「けなす係」だと思われてる(笑)。
永江 すぐ評価をほしがるからね。雑誌の編集者がほしがるのか読者がほしがるのかわかりませんけど。『きれいな猟奇』は、なんについて語っているのかわからないけど全体的に読むとおかしい、楽しい。
斎藤 そうそう、お風呂のあわみたいなの。ボコボコわいてきて何処に行くのかわからない、結論もなくて、ポツンと消える。ところで、この本は平凡社から出たのですね。ちょっと意外。
永江 気が遠くなるほど大変な原稿集めの作業をして、そのあとこれを出してくれる出版社を捜し・・・・・・。熱狂的なファンだからこそできる作業です。またそういう>ファンがいてくれるライターというのも珍しい。
斎藤 散逸している原稿を集めるというだけでクラクラしそう。
永江 幸福な著者ですね。
(司会・文・構成 國岡克知子)