★牧師の視点とちがった見方、読み方にふれました。各話の内容もよいのですが、各話の終わりの言の部分が力強いと感じました。先日、一部を説教に拝借しました。(東京都 五十嵐誠さん 牧師)
★私は唯物論に近い人間ですが、きわめて参考になりました。最初は抵抗が先立って読み進むのがつらかったのですが、読み進むうちに自らのかたくなさが氷解していくのがわかりました。いい本をありがとうございました。(北海道 井須史朗さん 病院職員)
■『聖書をひらく』書評より (各メディアに掲載された書評を転載させていただきました)
★「神と人との尽きることのない対話の中で自分を映す鏡として」
多くの人に「聖書」を読んで欲しいと願わないキリスト者はいないだろう。せめて一回でも良いから聖書を手にとってひらいて欲しい。そう願いながら、心のどこかで、「下手にひらいても、あの荒唐無稽(?)な天地創造物語や男だか女だかも分からない系図とそれに続く処女降誕(?)物語で、即座に躓くだろうな」と危惧していることもまた事実だと思う。読んで欲しい、しかし、無防備に読まれるとかえって困る。そういうものとして、聖書は私たちの前にあるのではないか。
そういう私たちにとって、実に有難い本が出た。著者は、最近、バルトのローマ書の神学に関する『悦ばしき神学』(五月書房)や内村鑑三の非戦論についてその名もずばり『非戦論』(NTT出版)を立て続けに出版してこられた富岡幸一郎氏(関東学院大学教授・鎌倉雪ノ下教会員)である。
「永遠のベストセラーの秘密―聖書は宗教の本ではない」から始まるが、その中で特に「聖書は自分を見る鏡」であるとの指摘は正鵠を射ていると思う。神に関心がない人であっても、自分には関心がある。聖書は、神のこと(宗教)を知るためにあるというよりも、むしろ自分を知るためにあるという導入は、聖書を手にとってひらいてみようかという思いにさせるに充分なことなのではないだろうか。
その後、創世記、出エジプト記、詩編、レビ記、ヨブ記などの紹介を通して、一体自分のなにが見えてくるのかに関する興味深い叙述が続く。後半は、文芸評論を専門とする著者らしくドストエフスキーと聖書の関係や「コヘレトの言葉」が何を語り、それが何故聖書に入っているのかなどの考察があり、最後に私たちの誰にとっても大問題である神の選び、予定説に関して、カルヴァン、ルター、そして最後に森有正の思索との対論がある。
全体として著者の姿勢は明確である。神の言葉である聖書を人間が理解したり、説明したりは出来ない。そのことに揺るぎがない。しかし、それでは何故、このような書物を書くのか。著者は「あとがき」において神学者バルトの有名な言葉を引用する。
「われわれは人間であるから、神について語ることは出来ない。が、神学者として神について語るべきである。われわれはこのふたつのこと、すなわち、語るべきだということ、語ることができないということをわきまえている。そして、まさしくそのことによって、神に栄光を帰する。」
また、本書の本文の最後の文章はこういうものである。
「とにもかくにも、強い問いかけ、エネルギーを持った聖書の秘儀は、神の予定論の中に隠されています。生涯を通してそれをじっくりと受け止め味わいたいと思います。」
この本が、単に平易に書かれた聖書解説書でないことは、この文章からも明らかであろう。(『信徒の友』3月号、書評より転載。評者:及川信<日本キリスト教団・中渋谷教会牧師>
★聖書という深く広い森に分け入る手引書は、古来数え切れないほど存在する。旧約・新約から抽出した重要で興味深いテーマを、15話で語り下ろした本書もそのひとつ。きわめてシンプルなタイトルと装丁だが、信仰の有無にかかわらず、読者にそのエッセンスに触れる近道を示してくれる、中身の濃いガイドブックだ。 自身もキリスト者で文芸評論家でもある著者は、聖書の世界について「われわれに都合のよい『答え』を与えてくれる人生の指南役ではなく、人間の理性や気分や判断の枠を超えたもの」だとし、だからこそ「向こうから、人間のあり方や真実を語りかけてくる力をもつ」。それが最も顕著に現れているのが、人間の常識や通念を超越した一種逆説的な神の「予定論」であるという。やさしい語り口の文章と随所に挿入されたユニークなイラストの助けで、難解な聖書の奥義が自然に理解できる。(新文化通信『多書済々』11月18日号より転載)
★人生はすべて空しい
本書は、聖書を少しはかじったことのある人に向けて書かれた聖書ガイドだが、私が気に入っているのはなんといっても第14話「なんという空しさ」である。ここでは旧約聖書のなかでもユニークな書である「コヘレトの言葉」を解説してくれる。旧約聖書の世界は単純に言ってしまえば、神を信じなさい、そうすれば究極的な救いが得られる、幸せになれる、ということだが(新約聖書の思想は旧約とはちょっとちがう)、この「コヘレトの言葉」だけは徹頭徹尾「空しい、人生のすべては空しい。人生とは重荷を背負うことである」という思想に終始する。聖書という書物の正典にこういう異色の考え方が受け入れられている、ということは聖書のとてつもない深さ、広さを表している。著者もここに着目しているようだ。聖書をまったく知らない人もここだけは読んでほしい。やさしい語り口だが、奥が深い書物であり、一読に値する。
(アマゾン書評より:評者kein110さん)
★<聖書にまつわる誤解を解く> 評者・鶴ヶ谷真一さん
一冊の本を手にして読みはじめるには、何らかのきっかけがあったにちがいない。名著であるという一般的な評価は、じつはそれほど強い動機とはならないようだ。それは古典があまり読まれないという事実を考えれば、おのずから納得されるだろう。本を選びとるきっかけは、人により時によってさまざまなのだろうが、概してごく個人的な思いに結びついているようだ。
私ごとになるが、初めて聖書を読もうと思い立ったのは、たしか十九か二十歳のころ、荒正人の著書にあった、聖書についての短い紹介文を読んだことがきっかけとなった。聖書の言葉は一本の蝋燭のように、闇のなかでしずかに燃えているという美しい比喩によって、それは結ばれていた。そのとき、聖書にまつわるさまざまの先入観が払拭される思いをしたのだろう。よく知られた古典には、往々にしてこの先入観というやっかいなものが付きまとう。まして聖書ともなれば。
本書の著者も、まず聖書にまつわる誤解を解くことから始めている。聖書とは必ずしも宗教の本ではないこと。聖なる書物だからといって、倫理や生き方の規範がしるされているわけではないこと。善きことや正しいことばかりではなく、むしろ人間性の深い闇の部分にも透徹した眼差しが注がれている。だからこそ、それは内面を映し出す鏡ともなる。
「わたしは聖書は鏡だと考えています。"ああしなさい、こうしなさい"と、読む人に教えを垂れている本ではなくて、むしろ聖書を読むと自分の姿がそこに映る鏡です。(・・・)自分の心や存在を知りたいときに、聖書を読むことでそこに映った自分というものを見ることができるのではないでしょうか」 こうして向きあうことによって、目の前にひらかれてある聖書は、初めて生きた言葉となってよみがえる。さらに、時代の現実とのかかわりについて、
「聖書が人間を問うことによって、時代が動き、時代が新しくなっていく、ということが実際に起こってきました。新約聖書の時代から二千年、旧約聖書の時代から数えるともっと長い、数千年の人間の歴史を聖書が作ってきたし、常に変えてきた。人類の歴史のドラマも、一人の人間の人生におけるドラマも聖書が作り、聖書を読むことによってドラマが生まれてきました。いろいろな人がいろいろな読み方をしてきたのです。言葉がひじょうにひらかれている本です」
今日のイスラエルとパレスチナの問題も、遠く聖書の記述に淵源していることに思い至るなら、聖書がいかに人々を行動へと駆り立て、したがって歴史の形成に与ってきたかが理解されるだろう。聖書を高遠な書物としてではなく、時代と人間のありように深くかかわるアクチュアルな本として考える。そのことは、「創世記」「出エジプト記」「詩篇」などを論じた本論においてもつまびらかに語られている。
人が苦しみ多い現在にあるとき、希望はどのようにして生まれてくるのか。「第十一話 将来から現在をみる」には、将来を思いわずらうのではなく、視点を換えて、将来という視点から現在を見つめることによって、運命論や因果応報論から解き放たれて自由になり、そこに希望と忍耐が生まれるとする一文がある。 聖書という、あまり読まれることのない、しかし一度手にすれば汲めども尽きぬ本への、やさしく書かれたガイドブックとして、本書を薦めたい。 (図書新聞 2004年11月20日号より転載)
★<ネット世代の根っこのコトバ> 評者・トラン童子さん
「初めに言(ことば)があった。」(ヨハネによる福音書)
この時代、言葉があふれている。情報というアミをかぶせたゴミ山のようだ。話し言葉も書き言葉もゴタゴタとつみかさなり、有用無用の見分けもつかない。まして初めの言(ことば)はどにある?…
その中でなんとも力のある、胸があつくなる言葉の本に出会った。根っこのコトバ、といいたいような。本書はふつうの聖書ガイドではない。底の浅い「ご案内」のひびきはみじんもない。著者は言葉をモンダイにするだけだ。その態 度は明快そのもの。日常会話で「語りえぬものを語る」。
近づきやすいのはハイブリッドな文章スタイルにある。著者はコーヒーを前に して(紅茶かもしれないが)、日常の言葉で聖書という特異なことばを語り、かつそれを(ややこしいがここが大切)活字コトバにしているのである。むろん世には対談などテープ起こしの活字本は多い。だが読みおわると、本書はそれらの対談本やテープ起こしの本とはまるでちがう印象をもつ。このふしぎに深みのあるスタイルはどこから生まれたのだろうか。 「言葉には力があります」と著者は喫茶店の椅子にもたれて(身をのりだしていたのかもしれないが)、言う。どうということはない普通のことばだが、全体の流れの中で読むとそれが「根っこのコトバ」として胸にひびく。文字というより、孤独なネットの中のコトバのように。
著者は伝達機能の意味を限定しているが、わたしにはまったく新しい伝達機能をも持ったコトバとしてひびく。メールのやりとりの世界は話し言葉と書き言葉の境界をくずし、時には伝達としてのあり様がいつのまにか平易だが思索的なものに変わっていくのを経験する。孤独と向きあう画面が生み出す文体。この本の内容はそれに似ている。
歴史の中で長く手渡しされてきた聖書の言葉が、このようなかたちでひらかれた「コトバ」になり得たのは、引用文の明晰なえらび方だけではなく、このハイブリッドな表現にあるのではないか、と思う。 この本を人生のとば口にいる若い人、特にネット世代の人にすすめたい。ここには必要な根っこのコトバがあなたに必要なだけある。あなたがクリスチャンであろうとなかろうと「信仰」や「復活」という言葉を、まったく新しいものとして感じることができだろう。 (「オンライン書店bk1」の書評より転載)
★<たくさんの人が聖書をひらくように願って>
文字通り、たくさんの人が「聖書をひらく」ようにと願って書かれた本。永遠のベストセラーといわれる書物だが、日本人にはどうもなじみが薄い。そんな定説を打破するために驚くべき提言がなされている。宗教の本、道徳の本という思い込みを捨てることを薦め、むしろ聖書を自分、あるいは時代の鏡としてとらえようという。聖書に基づき人間を問うことによって、時代が動き、時代が新しくなっていくと著者は述べる。 わかりやすい挿絵と、現代に通じるさまざまな問題が、聖書を鏡として語られていく。しかし、入門書という枠を超えて、内村鑑三の平和論や、シオニズム、カルヴァンの二重予定説なども取り上げている。広く、深く聖書を学びたい人にも最適な書物。 (キリスト新聞11月13日号より転載)